イナンナの冥界下り

シュメール神話『イナンナの冥界下り』を上演するための雑感を書くブログです。

イナンナと心の時代

イナンナと「心」の次の時代(1)

▼釈迦やイエスや孔子に代わる人

『イナンナの冥界下り』の初演は山のシューレですが、そのためのプレ講座を行っています。

で、第一回目にお話したことを、加筆しながらちょっとずつまとめていきますね。

さて、ずっと不思議に思っていることがあります。

高校二年の夏休みに空海にはまりました。特に『即身成仏義』はすごかった。次にはまったのが聖フランシス。これは映画『ブラザー・サン・シスター・ムーン』の影響。そして、もうひとりが吉田松陰。

仏教、キリスト教、儒教と王道御三家です。

でも、あれ?

空海もフランチェスコも松陰もすごいけど、空海はお釈迦様ほどじゃないし、フランチェスコもイエスには劣る。吉田松陰だって孔子ほどではない。

で、お釈迦様や孔子は紀元前500年くらいの人、イエスは紀元0年くらい。

「なぜ2,000年以上も彼らを超える人が出ないのか」

これが不思議でたまらなかった。

高校時代には、「そろそろ彼らに代わる人が出るんじゃないか」という誇大妄想もしました。

僕は高校にはマジメに行かず、バンド小屋で生活をしていたので、毎晩麻雀三昧でした。そして、その徹マンの中で、古代中国の漢字である甲骨文や金文に出会い、それらを読んでいるうちに、これは「心」の発生と関係があるんじゃないかと思い出したのです。


▼「心」は未来を変える

「心」という漢字が生まれたのは紀元前1,000年ごろです。漢字そのものは、その300年前に、なんと5,000文字以上もの漢字の存在が認められているのですが、その中には「心」という漢字がないんです。

ということは「悲」とか「怒」とか、あるいは「悩」なんて漢字もなかったわけで、ひょっとしたら昔の人は悲しんだり、悩んだりしなかったのかなぁ、などとも思うのですが、まあ、それはともかく「心」という漢字がなかった。

ということは、さらにひょっとすると「心」そのものもなかったのかも。

…なんて話をするとね、「そんなはずはない」って妙に突っかかってくる人がいるんです。 

どうもその人は、自分が思い込んでいる「こころ」のイメージが強すぎるというか、「こころ」は大切だと思いすぎているようです。

そんなわけで、この記事では漢字の「心」と、ひらがなの「こころ」を分けて書いていくことにしますね。漢字の「心」が、いま書いた紀元前1,000年くらいにできたものです。

漢字の「心」の機能というのは、ひとことでいえば…

●時間を知ること

…です。

なぜそうなのかということを話していくと長くなるので詳細は拙著や以前に書いたブログをご覧ください。

以前のブログはこちらからどうぞ~(これ、書き足さなきゃね)。

さて、それはともかく、時間を知ることによって…

●人は「心」によって未来を変えることができるようになった

…のです。

甲骨文や金文を読むと、それまでは唯々諾々と生贄にされていた民族が、「心」を獲得したことによって生贄としての未来に抗することができるようになったと思われます。

牛が黙ってビッグマックにされるのも、鶏が暴動を起こさずとKFCにされるのも、彼らに「心」がないから、すなわち、誰かが連れていかれても「次は自分かも」という推測ができないからなのです。

▼「心」の次の時代が来る?


ということで人は<生存>のために「心」を獲得したと思われるのです。

心を獲得してからを「心の時代」と呼ぶことにしましょう。古代中国でいえば紀元前1,000年くらいから「心の時代」が始まりました。

が、この「心」というものは生まれたときから非常に大きな副作用を持っていた。

未来を見通すことができるという作用は、そのまま未来に対する「不安」や過去に対する「後悔」を内包します。未来を変ええる力を手に入れた「心の時代」の誕生とともに、人は不安や後悔なども同時に獲得してしまったのです。

で、それを何とかしようとしたのが孔子や釈迦やイエスだったんじゃないか。彼らの言動を載せている仏教の経典や『聖書』や『論語』などは、「心」の副作用に対する処方箋、あるいはマニュアルだったんじゃないかと思うのです。

で、実際に引きこもりの人たちと『論語』を読んでみると、それが今でもかなり有効であることがわかります。

「心の時代」である限り、この三聖人の思想は極めて有効なのです。

が、そうはいっても正直、この三聖人の力は、いまは衰え始めているように感じます。

生存のために獲得した「心」によって、現代人は自分の生存を断ち切る=自殺しちゃったりする。むろん、自殺をした人は昔からいっぱいいましたが、いまはとても多い。う~ん、正確にいうと昔の数は本当のところはわからないけど、いまは不安になりやすい。

これは「心」の初期機能からすれば、完全に機能不全に陥っているといってもいいでしょう。

これこそが釈迦が予言した「末法の世」ではないかな、とも思うのです。

…となると、そろそろ「心の時代」が終わるかも知れない。「心」の次の時代が始まらなければならないときが来ているんじゃないか、そう思うのです。

ミシマ社さんの『あわいの力』や、ちくま新書の『日本人の身体』で書きたかったのは、その<「心」の次の時代>のことでした。

が、まだそれがどんな時代なのかは想像もつきません。

そこで、それを考えるためにも『イナンナの冥界下り』を上演することが大切だと思うのです。

おっと、そろそろ時間なので、また書きます。 

イナンナと「心」の次の時代(2)

▼「心」は文字が作った

そろそろ限界に来た<「心」の時代>の次の時代を考えるのに『イナンナの冥界下り』を上演することが大切だということを前回の最後に書きました。

それは『イナンナの冥界下り』は、また「心」がなかった時代の物語だからです。

ちなみに、ここでいう「心」というのは、漢字の「心」であって、僕たちがひとりひとり別々にイメージしちゃう「こころ」ではありません。「こころ」自体はあまりに曖昧な概念だし、その割には思い入れが強い人が多いので、それは脇に置いておくことにしましょう。

紀元前1,000年くらいにできた「心」の機能は、ひとことでいえば「時間を知る」ことです。

あ、ちなみにその時代の「心」という文字は、これです。

心

辞書などには「心臓の象形」と書いてありますが、これは男性の性器でしょ。

ま、それはともかく…。

で、この時間を知る「心」というのは「文字」が生み出したようなのです。

「文字」と「心」と、それから性器やお腹との関係については、『あわいの力(ミシマ社)』をはじめ、いろいろなところで書いたので、ここでは省略しますね。

『イナンナの冥界下り』は、「心」がない<プレ文字社会>の神話です。これが「心」の限界の時代に『イナンナの冥界下り』を上演する意味なのです。

▼できたばかりの文字は<プレ文字社会>も記述する

文字がない時代の神話とはいっても『イナンナの冥界下り』は、むろん文字で書かれています。しかし、文字ができた頃に書かれたものは<プレ文字社会>のことにも(それとは知らずに)言及してしまっています。

プレ文字社会

最初期の文字で書かれたものからは、<プレ文字社会>から<文字社会>へと推移するときのさまを読むことができます。

いまが<文字社会(「心」社会))>から<アプレ文字社会(アプレ「心」社会))>への推移のときであるならば、数千年前の推移の時期にどのようなことが起きたのか、それを知ることは意味のあることだと思うのです。

で、それを机の上で学問として研究する方もいれば、僕たちのように身体を使って、語ったり、上演してみるという奴らがいてもいいと思うのです。それにによって見えてくるものがあるかもね、なんて思うのです。

▼<プレ文字社会>の古典

<プレ文字社会>のものとして現在、私たち(在野の非・研究者)が比較的容易に読めるものとしては…

(A)『古事記』
(B)甲骨文字で書かれたもの
(C)シュメール語の神話・伝説
(D)ヒエログリフで書かれたもの
(E)『イーリアス』、『オデュッセイア』(ホメーロス)

…などがあります。

でも、これはすべてそのまま信じていいというわけではありません。

たとえば(E)の『イーリアス』は、その写本が最古のものでも10世紀(紀元前ではなく紀元後ね)。

紀元前8世紀半ばにホメーロスによって書かれ、紀元前6世紀後半に文字化され、紀元前2世紀にほぼ今日の形にまとめられたとされてはいますが、その時代のものを見ることはできません。ですから、『イーリアス』に関していえば、<プレ文字社会>の一次資料として使うには慎重になった方がいいですね。

で、これは実は『古事記』もそうなんです。現在、確認し得る最古の写本は1370年代。かなり新しい。ですから『古事記』偽書説すら出ているくらいです。

また、(D)のヒエログリフで書かれたものに関しては、まだ習ったことがないの機会を見つけて学びたいと思っています。

▼語り手と書記

文字で書かれた<プレ文字社会>を考える上で、もうひとつ考えておかければならない問題は、語り手と筆記者との関係です。

『古事記』でいえば(序文の記述を信じれば)稗田阿礼が「誦習」していたものを太安万侶が書き記して、編纂したといわれています。

太安万侶は名前からして帰化人ですね。文字を知らない原日本人である稗田阿礼が朗誦するのを、太安万侶が漢字で筆録したのが『古事記』なのですが、しかしそれは稗田阿礼が朗誦していたそのままのものではない可能性が大です。

変わってしまう原因のひとつは相手です。語りというのは相手によって変わってしまいます。

金田一京助がアイヌの歌謡や語りを採集していたときに、彼がマイクを向けた途端に変わってしまったと書いています。能のようにテキストが固定されているものは別として(これですら変わる)、あらゆる歌や語りは相手によって変わるのです。特に相手の文化が自分と違うときには、大きく変容する可能性があります。

もうひとつは筆記者の問題です。

当たり前の話ですが、筆記者の習得している文字で書写できないものは書写ができません。この問題も2つあり、ひとつは、ない単語は書けないというもの。

たとえば「みかん」を英語ではうまく訳せません。「かすみ」「もや」「きり」の違いもうまくいかない。こういう場合、話者が相手にわかるように変化させてしまったり、あるいは筆記者が適当な語句をあてはめて誤魔化したりします。『古事記』の中にもよくあります。

もうひとつは音の問題。たとえばカタカナでは英語を写せませんし、アルファベットではオランダ語は書写できません。もうちょっと正確にいえば、書写はできても再現ができない。というか、それ以前に筆録者が、ちゃんと聞き取れているかどうかも疑問。

まあ、そのほかにもいろいろありますが、そんなことも一応含んで考えていきましょうね。