イナンナの冥界下り

シュメール神話『イナンナの冥界下り』を上演するための雑感を書くブログです。

冥界

冥界について(3)オルペウスの冥界下り

yasuda
(安田登)

▼ギリシャ語のオルペウスの冥界下り

『古事記』の冥界下りに似ているのが、ギリシャ神話のオルペウスの冥界下りです。

竪琴と歌の名手、オルペウス。彼は、毒蛇に噛まれた死んでしまった妻をもう一度生き返らせるために冥界に行くのです…って、似てるでしょ。『古事記』も、死んでしまった妻をこの世に戻すために冥界に行きます。

ただし、この神話、ギリシャ語で書かれているものはとても簡単なものしかありません。以下がそれです。

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カリオペーとオイアグロスから、しかし名義上はアポローンから、へーラクレースが殺したリノスおよび歌によって木石を動かした吟唱詩人オルぺウスが生れた。オルべウスはその妻エゥリュディケーが蛇に噛まれてなくなった時に、彼女を連れ戻そうと思って冥府に降り、彼女を地上にかえすようにとプルートーンを説き伏せた。プルートーンはオルぺウスが自分の家に着くまで途上で後を振りむかないという条件で、そうしようと約束した。しかし、彼は約を破って振り返り、妻を眺めたので、彼女は再び帰ってしまった。

オルべウスはまたディオニューソスの秘教(ミュステーリア)を発見し、狂乱女(マイナデス)たちに引き裂かれてピエリアーに葬られた。 『ギリシャ神話(アポロドーロス:高津春繁訳)』1C~2C
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ね、あっさりしているでしょ。それに1世紀から2世紀くらいって新しすぎです。

ギリシャ神話をギリシャ語で読もうとすると、こういう問題にぶつかります。『神統記(ヘーシオドス)』も、あっさりしすぎているし…。むしろラテン語で書かれたものが方が古かったりします。

▼ラテン語で書かれたオルペウスの冥界下り

 …ということでラテン語ではオウィディウス( 紀元前43年3月20日 - 紀元17年)が書いた『変身物語』の第十巻にオルペウスの冥界下りの話が載っています。

では、その物語を紹介しましょう(以下、逐語訳ではありません)。

オルペウスの新妻、エウリュディケは草原で蛇に踵をかまれて死んでしまいました。オルペウスは妻をいたんで地上で十分泣きつくすと、亡霊たちの国、黄泉の国に降りていきました。

亡霊たちの群がるなかを通りぬけて「悲しみの国の支配者・亡霊たちの王」のもとへと進み、竪琴を弾き、歌います。

妻を探しにここまで参りました。
一匹の毒蛇のために、まだ年若い妻は死んでしまいました。
 
あなたが治めるこの冥界こそ、わたしたちの終の棲家。
妻もまた、墓に入るにふさわしい年齢になれば、あなたがたの配下に入ることは必定。
 
どうか妻にお恵みを垂れ、
それまでの間、もう一度人生を楽しませてください。
 
それがかなわぬならば、
わたしも地上に帰らぬ決心をしております。
わたしたちがふたりとも死ぬのを見てお楽しみくださればいい

亡霊たちも、この歌を聞いてみな涙を流した。タンタルスも水を追いもとめることをやめ、イクシオンの火の車はとまり、はげ鷹どもは生贄の肝臓を引き裂くことをやめ、ベルスの孫娘たちは水甕を捨て、シシュプスも転がす岩の上に腰をおろし、冷徹なるエウメニデスはじめて頬を涙でぬらした。

冥府の王妃も王者も、ついにオルペウスの願いを退けることはできず、傷のために足をひきずる若妻エウリュディケをオルペウスに渡し、「アウェルヌスの谷を出るまではけっして後ろをふりかえらない」という約束をした。

ふたりは、濃い霧におおわれた、暗い、急な坂道を沈黙のまま上って行きました。が、オルペウスは妻が遅れていはすまいかと心配になり、つい後ろを振り返ってしまったのです。

すると、妻は、たちまち後ろへひきもどされ、ふたたび死の国に連れ戻されてしまうのです。

▼少年愛、ここに始まる

アポロドーロス(『ギリシャ神話』)によれば、冥界から戻ったオルべウスはディオニューソスの秘教(ミュステーリア)を発見したことによって、狂乱女(マイナデス)たちに引き裂かれて死んだと書かれていますが、ラテン語版(『変身物語』オウィディウス)ではちょっと違います。

彼は「女のために、自分はこんなに不幸になったんだ」と思い、すべての女性との交渉を断ってしまったのです。そして彼は少年を愛し始め、「まだ大人にならぬうちに人生の春と最初の花とを摘むことを身をもって教えたのは、じつにオルペウスその人だったのである」となるのです。

少年愛の始祖こそオルペウスです。

ちなみに、この故に、やはりディオニューソスの乙女たち(バッカスの神女)に殺されたとも言われています。

冥界について(2)古事記の冥界

yasuda
(安田登)

▼イザナミ死す

今回はまず『古事記』のお話をします(ご存知の方は今回は飛ばしてください)。
 
『古事記』の冥界は「黄泉(よみ)」と呼ばれます。この「黄泉」という言葉がちょっと問題なのですが、それについては、またこんどお話することにして、まずは物語を見ておきましょう。

このお話に登場する神様は、日本の国土や、さまざまな神々を生んだ伊邪那岐(いざなぎ)の命(みこと)と、その妻である伊邪那美(いざなみ)の命です。

※どっちがどっちかわからなくなるので、男性の伊邪那岐で、女性の伊邪那美はにしますね。

この神話は、あとでいろいろとお話をする材料になりますので、以下、文章がちょっと変になるのを覚悟の上で、特に前半をなるべく原文に近い形で現代語に直してみます。

妻、伊邪那美の神は、火の神を生んだことによって「神避(かむさ)」ってしまいました。「神避(かむざ)る」というのは、神様が亡くなるときの言葉ですが、これもあとで触れますが、古代日本語の「しぬ」と「死」は別の言葉なので、正確に言えば「神避(かむざ)る」と「死ぬ」はちょっと違います。

この「神」についても書きたいのですが、話が混乱するのでまた~。

それはともかく、亡くなってしまった妻を、伊邪那岐の命は比婆の山(出雲の国と伯伎の国の堺)に葬りました。この「境」というのもあとで触れますね。

▼妻に会いに冥界に行く:「見るな」の禁忌

さて、妻を葬った伊邪那岐の命は、それでも妻にもう一度会いたいと思い、黄泉の国まで追って行きます。そして殿の騰戸(さしど)で妻と会い、戻ってくるようにと次のように言います。

「愛しい我が妻よ。お前とともに作っている国はまだ作り終えていない。だから還るべきだ」

妻は答えます。

「ああ、もっと早くいらっしゃらなかったことが悔しい。私はすでに黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。しかし、愛しい我が命(みこと)がいらっしったことはおそれおおいことです。だから還ろうと思うのですが、しばらく黄泉神と相談しましょう。そのあいだ私のことを見ないでください

そのように言ったあと妻は「殿の内」に入って行ったのですが、あまりにそれが長い間だったので、夫である伊邪那岐待ち難(かね)た

そこで、左のみずらに刺していた「ゆつつま(湯津津間)」の男柱一つ取り、それに火を灯して中に入って妻、伊邪那美の姿を見ると、その体には無数の蛆虫が、ころころと音を立ててたかっていた。

そして、体中には八体の「雷(いかづち)」がいた。

と、ここでひとつ注意。現代人の私たちは「雷(いかづち)=雷さま」というと、あのトラのパンツを履いた、ちょっとかわいい奴を想像してしまいますが、それは違います。

「いかづち」の「いか」は、いかめしいというときの「いか」で漢字を当てれば「威」や「猛」、すなわち「恐ろしく、かつ勢威のある」という意味。そして「ち」は、大蛇の「ち」と同じく「蠢く霊力」。すなわち「いかづち」は「威つ霊」、おそろしい悪霊なのです。

詳細を記せば頭には大雷、胸には火の雷、腹に黒雷、女陰には拆雷、左手には若雷、右手には土雷、左足には鳴雷、右足には伏雷と合わせて八柱の雷神が出現していた。

▼逃げるイナザギ、追うイザナミ 

それを見た伊邪那岐命は恐ろしくなって逃げます。

その妻、伊邪那美命は「よくも私に恥を見せたな」といい、黄泉醜女(よもつしこめ)たちに夫を追わせた。

黄泉醜女…よくわからないけど、なんか怖いですね。 

伊邪那岐命は、御鬘(みかづら)を取って投げると、そこから蒲(えびかづら)の実が生った。どうもこれ、ブドウらしいです。

黄泉醜女たちが、それを食べている間に逃げる。

と、また追って来る。今度は右の御みずら(美豆良)に刺していた「ゆつつま(湯津津間)櫛」を一本一本取って投げると、そこから笋(たけのこ)が生え、やはり黄泉醜女たちが、それを食べている間に逃げて行った。

妻、伊邪那美は、今度は例の八柱の雷神に、千五百もの黄泉の国の軍団を率いさせて追わせた(ひとりに千五百って卑怯…)。

逃げる伊邪那岐命は、十拳(とつか)の剣を後ろに振りながら逃げ、とうとう黄比良坂の坂本にまで至った。そこには桃の実が三つ生えていて、伊邪那岐命がその三つの桃を投げると、八柱の雷神も、千五百の黄泉軍団も逃げ返った。

この後ろに振りながら逃げるのも面白いですが、この話もしていくと話が混乱するので、またいつか~。

が、最後には伊邪那美命が自ら追ってきた。

夫、伊邪那岐命「千引の石(いわ)」を黄比良坂に引き塞えぎった。その石を間に置いて、夫・妻がおのおの相向かい「事戸(ことど)」を渡す。

まず、妻、伊邪那美命

「愛しい我が夫の命よ、あなたがこのようにするならば、あなたの国の人草を一日に千頭、絞り殺しましょう」

こわ…。それに対して、夫、伊邪那岐命

「愛しい我が妻の命よ。お前がそのようにするならば、私は一日に千五百の産屋を立てよう(子を産もう)」

ここから一日に必ず千人の人が死に、一日に必ず千五百人が生まれるようになった。

そして、妻の伊邪那美神命を「黄津大神」、また「道敷(ちしき)の大神」と名づけた。また、間の石を「道反(ちがへし)の大神」、また「塞(さや)ります黄戸の大神」と名づけた。この黄比良坂は、今の出雲国の「いふや(伊賦夜)坂」といわれている。

▼この物語でチェックしておきたいこと

この神話は、いろいろと面白いのですが、まずは以下の点をおさえておきましょう。これらについては、あとで色々考えていきます。

・妻を葬ったのが、出雲の国と伯伎の国の堺である比婆の「山」

・黄泉の食べ物を食べてしまったら、もう戻れない

・「見るな」の禁忌を破った理由が「待つことが難しかった」から

・妻の本当の姿を見せてくれたのは「櫛の霊力」

・それで見たのは、蛆がたかり、悪霊に囲まれた妻の姿

櫛の霊力桃の霊力で追っ手から逃れる

・人間の生と死の起源が語られる

・冥界とこの世との境界が黄比良坂と呼ばれる

…では、次回は『オルフェウス』の冥界下りの物語を見ていきましょう。
 

冥界について(1)イントロ

yasuda
(安田登)

『イナンナの冥界下り』は、『アン・ガル・タ・キ・ガル・シェ(大いなる天から大いなる地へ)』というのが正式名称です。

で、『イナンナの冥界下り』というのは、オクスフォードのシュメール語文学の総合サイト「ETCSL」の英訳「Inana's descent to the nether world」を和訳したものです。

でも、本当はイナンナの「冥界(nether world)」も「下り(descent)」も、僕たちがイメージするそれとはちょっと違うので、それについていろいろ書いていきますね。

▼世界中にある冥界下り

『イナンナの冥界下り』を上演したいと思ったのは、那須の二期倶楽部で毎年開かれている「山のシューレ」でふたつの「冥界下り」を上演したあとでした。

最初は「黄泉の通い道-『古事記』と漱石の見た夢」という作品を上演しました。これは『古事記』の中から「イザナギの冥界下り」と夏目漱石の『夢十夜(第三夜)』という、生と死の世界を行き来するふたつの物語を、「夢の中の夢」の物語として新たに編み直して作った作品です。

火の神を産み、その性器を焼かれて死んだ妻イザナミを追って、夫であるイザナギが黄泉の国に尋ねていくという『古事記』を、なるべく原文の言葉そのまま(といっても本居宣長の書き下し文ですが)に上演しました。

次に上演したのはギリシャ神話のオルフェウスの冥界下りです。竪琴と歌の名手であるオルフェウスは、蛇に噛まれて死んだ新妻エウリュディケーを追って死者の国である冥界まで行きます。

こちらはモンテヴェルディのオペラ『オルフェオ』を元に作りました。オルフェオ(オルフェウス)の役は、中世・ルネサンスの歌を中心に歌われる辻康介さんがイタリア語で歌い、狂言の奥津健太郎さんと僕が日本語(能や狂言)でそれに絡んでいきます。

死者の国に行く「黄泉下り」と、そこから戻って来る「黄泉返り(甦り)」の物語。これを二作続けて上演したときに、何か不思議な違和感を感じました。

それは、古代人にとっての「冥界」や、あるいは「死」というものは、どうも僕たちのイメージする冥界や死とは何か根本的なところで違う、そこからくる違和感でした。その違いを知ることは、古代人の死生観を知ることであり、さらにはそれによって現代人である僕たちでも誰もが直面する「死」に対する考え方やイメージも変わるのではないか、そう感じたのです。

そして、それならばいっそのこと、最古の冥界の神話、『イナンナの冥界下り』を上演しようと思ったのです。

というわけで、イナンナの話を進める前に、まずは『古事記』と『ギリシャ神話』の冥界下りについて、少しお話しておきますね。