◆◆◆イナンナの冥界下り 2017年6月公演迫る◆◆
  ~いとうせいこうさんの出演(声)も決定!~

イナンナの冥界下り2017年6月公演チラシ表2/20170511


来る6月23日(金:あ、もう来週の今日)に予定されている『イナンナの冥界下り』セルリアンタワー能楽堂公演では、いままでの「古代編」に加えて「未来編」も上演いたします。

古代編には、実験道場の面々も登場し、またまたポップな舞台になります。そして、未来編は一転して(なんと)能よりも静かな舞台になりそうです。さらに未来編には、いとうせいこうさんによる声の出演(自著朗読)も決定しました。

ちなみに正面席はございませんが、ほかのお席はございますので、どうぞお早目に~。

▼未来編の舞台はシンギュラリティ直後の世界

未来編の舞台はシンギュラリティ直後の世界です。

AI(人工知能)やVR、そしてロボットなどのコンピュータ技術の進歩や、遺伝子工学、人工臓器などの生命科学などの発達によって、今までの常識がまったく通じなくなる世界(シンギュラリティ=特異点)が2045年頃に訪れるという予測を、レイ・カーツワイルがしました。

その前にも2020年(東京オリンピック)や2030年にも大きな変化が予想されています。もう目の前の話です。

シンギュラリティ表紙
マレー・シャナハン (著), ドミニク・チェン (監修・翻訳)

今回の『イナンナの冥界下り』未来編は、2045年頃と予測されているシンギュラリティ直後の世界が舞台です。

本当にシンギュラリティがやって来たら人類はどうなってしまうのだろうか。ひょっとしたらコンピュータに支配されたり、あるいは滅んでしまったりするのではないか、そう心配する人もいます。しかし、私はそんなことはないと思っています。なぜなら、このようなシンギュラリティを人類は過去に何度も体験してきたからです。

とはいえ、そのたびごとに確かに人々の生活や文化は激変し、ときには脳そのものの変化すら起きました。いまの生活がそのまま続くということはないでしょう。

直近のシンギュラリティは「文字」の発明による文字シンギュラリティです。文字シンギュラリティは、「心」を生み、「論理」を生み、そして「法(組織・マニュアルも)」を生みました。

シュメール語の『イナンナの冥界下り』は、文字シンギュラリティ直後に書かれた神話であり、私たちはこの神話を上演することによって、文字シンギュラリティ後にどのようなことが起こったかを知ることができます。

ならば、その構造をそっくりそのまま未来に移し替えることも可能なのではないか、そう思い『あわいの力』や『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)を書いたのですが、その世界がほぼそのまま小説になっていたのです。

それが、いとうせいこうさんの『親愛なる(河出書房新社)』でした。

親愛なる表紙

▼ダンスをコトバとする主人公

『親愛なる』の初版は、読者ひとりひとりにカスタマイズされた形で物語れるという実験的な方法で書かれました(現在は普遍版の入手も可能)。

あらゆる事件が自分の周囲で起こり、自分のメールアドレスにいとうさんからメールが来る。そんな仕掛けに取り込まれ、現実と虚構との境を見失っているうちに、いつの間にか不思議な位相に引きずり込まれていて、気がつくと自分が近未来の韓国の地下世界にいるのです。

いとうせいこうさんの『親愛なる』では次のように書かれます。

*****************
昔、地上に人がいた。
だが、大きな戦いが起こり、人々は皆地下を目指した。
******************

今回の舞台は、この地下世界です。「イナンナ未来編」では、そこは「クル(Kur=冥界)」と呼ばれ、地下世界の女王「エレシュキガル」に支配されています。

小説のネタバレになるのであまり詳しくは書けませんが、『親愛なる』では、そこに住む人たちはどの国の言語も理解できるように身体改造がなされています。しかし、実はそれは「賢い者」によって「言葉が奪われている」状態なのです。

これって、即座に各国語に翻訳されるガジェットを手に入れた現代を思い出します。とても便利なようですが、実はそれを効率的に使うためには、たとえば主語を補ったり、従属節を明確化したりなどという英語的な文法でしゃべらなくてはならなくなります。知らないうちに世界中で文法の統一がなされ、それによって思考方法の統一がされてしまうのです。

こわ…。

さて、小説『親愛なる』の主人公であるソンメジャという女性は「DEF SONIC」と呼ばれる一群に属しています。彼女たちは共通言語的身体に改造されていないために、人々の話す言葉が理解できず、まずその話す言葉は人々には雑音としてしか聞こえない。

「DEF」とは、ヒップホップ用語で「かっこいい(definite)」とかそんな意味ですが、あとに「SONIC」が付くし、上記のような設定なので、当然それには「Deaf(聾)」が掛けられているでしょう(そしてそれと対になる「Mute(唖)」も)。

DEF SONICとして言葉を失っているソンメジャは、音声言語代わりにダンスで話し、聞きます。彼女にとっての(広義の)コトバは、ダンスなのです。

未来編のイナンナも、ダンスをコトバとするDEF SONICです。

※ちなみに主人公のソンメジャは、韓国の舞踏家、金梅子(キム・メジャ)さんがモデルです。

金梅子&土取利行「光」

※余談ですが、平城遷都1,300年記念式典のクロージング作品としたて、土取利行さんや中村明一さんと作った「間」を、金梅子さんが御覧になり、僕たちを韓国に招へいしてくださいました。そして、それを奈良で上演したときの司会が、いとうせいこうさんと松岡正剛さん…なんていう不思議な因縁もございました。

▼「脳」が文字を生み出した

ちなみに「Deaf(聾)」も「Mute(唖)」も、現代では差別用語として使用が控えらていれますが、しかしこれはシンギュラリティにおいてとても重要な身体的な特徴なのです。時代を変える人に刻まれた「聖痕」といってもいいでしょう。

文字シンギュラリティが中国で起こったのは紀元前1,300年ごろ、殷(いん=商)と呼ばれた時代です。

その時期に生まれたのが甲骨文字です。

20080902193654

それを発明したのが誰かはわかっていません。しかし、殷(商)の「武丁(ぶてい)」という王の時代に最初のものが見つかっているので、武丁が文字を発明したという人もいます。そして、彼は聾唖(ろうあ)だったという説があるのです。

文字は、脳の外在化ツールではなかったかと思います。ひょっとしたら紀元前1,300年ごろに、現在のような突如とした情報の洪水が起こり、それによって氾濫しそうになった「脳」が外在化のツールを求め、文字が誕生したのではないでしょうか。文字は「脳」がその誕生を希求し、それを「DEF SONIC」の武丁が実現した、そう考えられるかもしれません。

ここら辺のことは情報学者のドミニク・チェンさんや、ゴスペラーズの酒井さんと『WIRED』での鼎談でお話したので省略しますが…


…しかし、それを発明したのがDEF SONIC(聾唖)の王であったという伝承は非常に重要だと思うのです。彼は、言葉の世界から離れていたからこそ、その洪水に巻き込まれることもなく、冷静に脳の外在化装置としての文字を生み出し得たのではないでしょうか。

▼不安創出社会を救う人たち

文字の発明によって、私たちは自分が直接体験したことのないことまでも喋ることができるようになりました。それが文明や文化を作ったのですが、しかし実体験よりも概念が上回り過ぎた現代人は、かつてないほど饒舌になり、その会話も思考も、身の丈を超えたものになっています。

「いま自分にないもの」を語ることによって人々はそれを「渇望」することになります。そしてそれは、やはり文字とともに生まれた「心」を刺激し、それが満たされないことがわかると「不満」が増大します。不満はやがて「不安」になり、多くの人々がびくびくしながらも、しかし不機嫌に生きる「不安社会」が誕生します。

現代社会は、ただ不安社会であるだけでなく、ニーズ(渇望)の創出というマーケティング手法の導入によって「不安創出社会」にすらなっています。

すべて「文字」と「心」と、そしてそれに伴う言語の過剰が生み出したものです。

ならば、ポスト文字や、ポスト心を生み出す人は、やはり武丁のような言葉を聞くことも、発することもできない人々、すなわちDEF SONICなのではないでしょうか。

▼無音の多い舞台

というわけで、「未来編」では言葉のない状態、すなわち無音やノイズが多くなります。

いろいろと調整中(許可の必要となることも多いので)なので詳細は書けませんが、派手な古代編とは対照的な静謐を多用する、緊張感あふれる舞台になる予定です。出演者も最少人数に抑え、舞台上にも空隙を多く作ります。

能を大成した世阿弥は「せぬ隙(ひま)」ということを言いました。言葉が出る前、動きが見える前、その時間的、空間的な間隙、それを「せぬ隙」といいます。後代の「間(ま)」のもととなる概念です。

今回の舞台では、この「せぬ隙」、すまわち「間」が非常に多い舞台になるでしょう。

ところどろこに、いとうせいこうさんの『親愛なる』からの引用が朗読されますが、それを朗読するのがいとうせいこうさん本人です。ただし、ノイズや音楽とリミックスされ、玉川奈々福さんの朗読、安田のシュメール語朗誦とも重なり(高井啓介先生にお願いして、いとうせいこうさんの文章をシュメール語訳していただきました)、いとうさんの存在も「せぬ隙」となります。

未来編のイナンナ役にはアムステルダム在住のコンテンポラリー・ダンサー湯浅永麻さんをお迎えします。埼玉トリエンナーレの『HOME(向井山朋子作・演出)』を、『イナンナの冥界下り』の出演者たちと観に行き、その表現力や身体能力の高さにみな度肝を抜かれ、今回の出演をお願いしました。

永麻さんはアムステルダム在住だし、能楽師、浪曲師の時間を合わせるのがなかなか難しいので、永麻さんをお迎えしての未来編・東京公演は今回が最後になるかも知れません。

実は2日公演にしたかったのですが、どうしても日程の都合がつかず、(ほんともったいないのですが)1回公演になってしまいました。

そんなわけで、安田からのメールも今日まで控えておりました。現時点でワキ正面と中正面にはまだお席があるようです。

くれぐれもお見逃しのなきよう、皆さまのお出ましをお待ち申しております。

■日時 6月23日(金)18時15分開場 19時開演

■場所 セルリアンタワー能楽堂(渋谷駅より徒歩5分)

■料金 正面席6,500円、脇正面席5,500円、中正面席4,500円

(てんらい会員は1,000円引き 指定ご希望の方は1,000円にて承ります)

■予約 てんらい事務局 event@inana.tokyo.jp 080-5520-1133(9時~20時)