にわとり
<甲骨文字の「鶏」>

あけましておめでとうございます。

旧年中は『イナンナの冥界下り』『海神別荘』天籟能の会、そして寺子屋をはじめ、さまざまなワークショップにお出ましいただき、まことにありがとうございました。

今年もいろいろな企画で、皆さまのご来駕をお待ちしております。

さて、酉歳にちなみ「鶏」に関する章句を中国の古典の中から三つほど選んでみました。

(1)鶏の五つの徳

鶏には、「文」・「武」・「勇」・「仁」・「信」5つの「徳」があるという『韓詩外傳』の言葉です。

・頭の上には冠を載せる、これは「文」
・足であるいは打ち、あるいは防ぐ、これは「武」
・敵を前にしたら敢然と戦う、これは「勇」
・食べ物を得たら仲間に告げる、これは「仁」
・夜を守り時を失わない(必ず暁に時を告げる)、これは「信」

「首戴冠者、文也。足搏距者、武也。敵在前敢鬥者、勇也。得食相告、仁也。守夜不失時、信也。雞有此五德。」出典『韓詩外傳』

「鶏には五徳がある!」と覚えておきましょう。 

(2)鶏とともに起き、善をなす

「雞鳴而起、孳孳為善者、舜之徒也」出典『孟子』(盡心上)

(書き下し文)鷄鳴きて起き、孳孳(じじ)として善を為す者は、舜の徒なり

(意味)鷄が鳴くと起き、せっせと善をなすものは聖人舜の仲間である

孔子が「何もしないのに国を治めることができた聖人(無爲而治者)」として挙げた「舜(しゅん)」。その舜のようになるには、鶏とともに起きて、せっせと善となすことだ、と孟子はいいました。

ちなみに「善をなす」の「善」とは、いまの「よい」とはちょっと違います。『論語』の中では「善」「美」の上位概念として使われています。この両者、中に「羊」がありますね。生贄として使われる神聖な動物が「羊」です。

「美」とは、その立派なものをいいます。そして、「善」とは立派であるだけでなく「羊神判」にも使われるような、さらに神聖な羊をいいます。

ちょっと話をはしょると「善」というのは、声なき声の人々の声を聞き、それに従うことをいいます。あるいは集合的な無意識に従うことといってもいいでしょう。「俺が、俺が」の個に固執せずに、せっせと人のために尽くす、それが「孳孳(じじ)として善を為す」ですね。

(3)双葉山、白鳳で有名になった「木鷄」

「鷄雖有鳴者、己无變矣。望之似木鷄矣、其德全矣」出典『荘子』達生、『列子』黄帝 

(書き下し文)鷄鳴く者有りと雖(いえど)も、己(おの)れ變(へん)无(な)し。これを望むに木鷄に似たり。其の德、全(まった)し。
※「己(おのれ)」は「已(すでに)」と書く本もあります。

(意味)(闘鶏を育てるとき)ほかの鶏で鳴くものがいても、この鶏は動じることがなくなった。これを遠くから見ると木彫りの鶏のように見える。その徳は完全なものになった。

これはかつは双葉山が、そして近くは白鳳が引用して有名になった章句です。

闘鶏の調教の話です。調教が進み、かなり強そうになったのですが、調教師は「まだ」だといいます。その強さは空元気「俺が、俺が」が見えるからです。

さらに調教をして、もういいだろうというと、やはり調教師は「まだ」だといいます。敵を見ると興奮するからです。さらに調教しても、まだ「だめ」という。敵をにらみつけようとするからです。

そして、この「木鶏(木彫りの鶏)」の境地になったとき、これと戦おうとする鶏もいなくなり、みな元のところに戻ってしまったといいます。この話は、『荘子』と『列子』に載っています。

本年が皆さまにとって、よりよい年となりますよう、心より祈念しております。