イナンナの「明解」下り(1)

2016年12月27日(火)にセルリアンタワー能楽堂(渋谷)で上演した『イナンナの冥界下り』にお出ましいただいた皆さま、本当にありがとうございました。また、いらっしゃれなかった皆さま、次回はぜひお出ましください。

この舞台は、もともとが古バビロニア時代、すなわち紀元前2千年紀前半(2000−1500年頃)に書かれたと思われる古代の叙事詩(神話)を元にしていますので、ちょっとわかりにくいところもございます。舞台の流れに沿って『イナンナの冥界下り』の意味などをお話してみたいと思います。

シュメール語の高井啓介先生にチェックをしていただきましたが、文責は安田登です。写真は2016年12月の公演を田島空さんに撮っていただいたものと、ビデオカメラからのキャプチャーを使いました。

題して『イナンナの「明解」下り』
※このタイトルは物理学者の江本伸悟さんが「冥界下り」と打とうとしたら「明快下り」と誤変換されたというツイートを見て、それ頂戴しました!

イナンナ3
※このイラストは中川学さん画。絵の解説はこちらにあります。(1)(2)(3)

『イナンナの冥界下り』は全412行で長大な叙事詩(神話)です。私たちの上演では、その前半部分である284行を、能楽の「序・破・急」の構造に当てはめてお送りしております。

全文をお読みになりたい方はこちらでどうぞ。
シュメール語→ETCSLのTransliteration
英訳→ETCSLのTranslation

●全体の構造

…というわけで上演用の全体の構造をまずは紹介しておきましょう。

プロローグ イナンナ女神への憑依儀礼(神降ろし)
序の段 女神イナンナ 冥界に赴く
序の1段 さまざまなものを捨て、7つの「メ」を身につける
序の2段 大臣ニンシュブルに後事を託す
序の3段 冥界への道行き
破の段 女神イナンナ、冥界の女王エレシュキガルに死を賜る
破の1段 イナンナ、冥界に到着し、エレシュキガルの怒りを招く
破の2段 7つの「メ」が剥がされる
破の3段 弱い肉となったイナンナは冥界の釘に吊り下げられる
急の段 イナンナとエレシュキガルの甦り
急の1段 ニンシュブル、神々のところに行く
急の2段 クルガラ、ガラトゥル、冥界に行く
急の3段 イナンナとエレシュキガルが甦る
エピローグ 神送り
※ちなみに省略した後半部分は、冥界から地上に戻ったイナンナが身代わりを探すお話になります。それはそれでとても面白いのですが、それまですると上演時間が4時間ほどになってしまうので泣く泣くカットです。

今回は全体の中から「プロローグ」「序の段」についてお話をします。

●始まる前の舞台
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始まる前の舞台には中央に牛頭の竪琴、その後ろには能の作り物で「宮(みや)」と呼ばれるものが置かれます。右奥には何やら怪しいキーボード群も見えて、普段の能の舞台とはだいぶ違う趣きです。

●シュメールの竪琴

舞台の真ん中にど~んと鎮座ましますのは、牛頭のシュメールの竪琴です。

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竪琴の解説 by 高井啓介先生

この牛頭の竪琴は『女王の竪琴』ともいわれ、現在大英博物館に展示されています。

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<大英博物館蔵の竪琴>

ウルのスタンダードの饗宴の場面の最上段の右端にもこの竪琴を持った楽人が描かれています。

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<ウルのスタンダード。右上に注目>

この楽器はウルのプ・アビ女王の所有物だと思われ、彼女の墓の副葬品として発見されました。1927年にレオナルド・ウーリー卿が発掘し、1928年に大英博物館が取得しています。竪琴が作られたのは紀元前2600年頃のようです。竪琴にあしらわれている牛の頭部の目と髪とあご髭は遠くアフガニスタンから運ばれたラピス・ラズリ(瑠璃)でできていました。胴体部分は楽器の共鳴板になっていました。

この竪琴、最初はイラク(シュメールのあった国)大使館経由で、イラクの職人さんに作成を依頼していたのですが、ご存知の通り、それどころではなく、今回はアメリカのハープ製作者に本体の作成を依頼し、牛頭部分は日本でお神輿や文化財の修復などもされている方に依頼して作成しました。音階や演奏方法などは研究中ですので、今回は演奏はできませんでした。

●神殿

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<この写真は東雅夫さんのツイートから拝借>

竪琴の後にあるものは、能では「作り物」と呼ばれているものです。ほとんど舞台装置を使わない能の中で使われる数少ない舞台装置のひとつです。「作り物」にはいくつかの種類がありますが、これは「宮(みや)」と呼ばれるもの。

今回は、これが神殿や宮殿を現しますが、 イナンナの神殿冥界の神殿も両方ともこれです。舞台が天上世界ならばイナンナの神殿になり、冥界ならばエレシュキガルの神殿になります。「文脈でわかれ!」というのが能の方法です。

では、いよいよ舞台が始まります。 

▼プロローグ イナンナ女神への憑依儀礼(神降ろし)

●「よりまし」と神官の登場

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<神官と尸童(よりまし)>

薄暗い灯りの中、能管(能の笛)の音に引かれるようにして登場するふたり。向かって左は神官(安田登:能楽ワキ方)。もうひとりの怪しい人はコロス(合唱)の衣装を着ていますが、今回、イナンナを演ずる役者、尸童(よりまし)です(奥津健太郎:能楽狂言方)。神官は、コロスらとともにイナンナ女神を神降ろしして、この尸童(よりまし)に憑かせます。

能の『翁』や、チベットの『ケサル王』の叙事詩など、古代の神聖祝祭劇では、舞台の上で神が「よりまし」に憑依し、そして憑依された「よりまし」が、神として神を演じるということがよく行われます。今回の上演では、「よりまし」が舞台の上でコロスの衣装を脱いで、神であるイナンナの姿に変容して、イナンナを演じます。

登場して最初に謡うのはシュメール語『イナンナの冥界下り』の冒頭部分です。楔形文字で書くとこうなります。

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…が、このままでは「何が何だかわからない」という人が多いので、以下、シュメール語の原文はアルファベットで書きます。これだと発音ができるでしょう?

an gal-ta(アン・ガル・タ:大いなる天より)
ki gal-še(キ・ガル・シェ:大いなる地へと)
ĝeštug-ga-ni(ゲシュトゥグ・ガ・ニ:彼女の耳を)
na-an-gub(ナ・アン・グブ:立てた)


女神イナンナは、「大いなる天」から「大いなる地(冥界)」に行こうと決めるのですが、このときに「彼女の耳を立てた」という表現が面白いですね。本来なら「心を向ける」とすべきところですが、私たちの思う「心」がない時代のお話なので、内面の「心」ではなく、身体の「耳」を向けています。

ちなみになぜイナンナが冥界に行こうとしたのかの理由はどこにも書かれていません

また、この謡は上演中に何度も繰り返して唱えられますので、覚えてしまうと上演中に口ずさめます(笑)。

・コロスの登場


続いて登場するのはコロス(合唱)たちです。

コロス(χορός)とは、古代ギリシア劇の合唱隊のことです。ギリシア劇の中では、劇の背景やあらすじ、あるいは登場人物の内面などを語りますが、私たちの上演では主に「地の文」を語ります。そういう意味では能の「地謡(じうたい)」に近いでしょう。しかし、能の地謡がずっと座っているのに対して、ギリシャ劇のコロスは、身体表現もし、仮面もつけていました。今回も動くし、仮面をつけているので、やはりコロスかな…。

コロスたちは冒頭部分の詞章(アン・ガル・タ…)を呪文のように低吟しながら登場し、「よりまし」の周りをぐるぐると回ります。その間に女神イナンナが「よりまし」に憑依して、やがて物語が始まるのです。

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<コロスたちは「よりまし」の役者の周りをぐるぐる廻って憑依を促す>

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<コロスの衣装から女装に代わり女神イナンナとなった役者:中央>

ここでコロスのメンバーを紹介しておきましょう。本ブログでもお世話になっているシュメール語の高井啓介先生や浪曲師の玉川太福さんも参加しています。

大島淑夫、大金智、金沢霞、笹目有花、高井啓介、玉川太福、塚田里香、中川善史、名和紀子、松山記子(五十音順)


▼序の段 女神イナンナ 冥界に赴く

・捨てていく
 
冥界に心(耳)を向けた女神イナンナは、いよいよ冥界に向かいますが、そのために自分を祀るさまざまな神殿や、神官としての地位を捨てて行きます

コロスたちはšub(シュブ:捨てる)」mu-un-šub(ム・ウン・シュブ:捨てる)」などの言葉を強い音で発し、これからさまざまなものを捨てていくことを示します。

nin-ĝu an mu-un-šub ki mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(私の主人は天を捨て、地を捨て、冥界へと下った)
inana an mu-un-šub ki mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(イナンナは天を捨て、地を捨て、冥界へと下った)
nam-en mu-un-šub nam-lagar mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(エンの地位を捨て、ラガルの地位を捨て、冥界へと下った)
unug-ga e-an-na mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(ウルクのエ・アンナを捨て、冥界へと下った)
bad-tibira e-muš-kalam-ma mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(バド・ティビラのエ・ムシュ・カラマを捨て、冥界へと下った)
zabalam-a gi-gun-na mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(ザバラムのギグナを捨て、冥界へと下った)
adab-a e-šar-ra mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(アダブのエ・シャラを捨て、冥界へと下った)
nibru-a barag-dur-ĝar-ra mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(ニップルのバラグ・ドゥル・ガラを捨て、冥界へと下った)
kiš-a hur-saĝ-kalam-ma mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(キシュのフルサグ・カラマを捨て、冥界へと下った)
a-ga-de-a e-ul-maš mu-un-šub kur-ra ba-e-a-ed
(アッカドのエ・ウルマシュを捨て、冥界へと下った)

ここでちょっとワンポイントシュメール語講座! by 高井啓介先生
イナンナが捨てたエ・アンナとかエ・ウル・マシュとかの「エ」は、本当はex150話)ではなくて、e2E2です。エ・アンナはウルクにあるイナンナのe2(家)、エ・ウル・マシュはアッカドにあるイナンナのe2(家)のことです。

シュメール語で他に「エ」と発音する単語にはe3E3出)もあります。

日本語でも「エ」ということばには「絵」「江」それに「荏」「会」なんかもありますね。それと同じこと。もちろんシュメール人が「エ」とか「エの2」とか「エの3」とか言ってたわけではなくて、日本語と同じで文字で書き分けてました。読み方は全部「エ」です。現代の研究者が文字の読み方を発見するたびに、2とか3とかをつけていきました。だから、e
2ではなくてeで別にいいんです。

これまでにも、これからもシュメール語本文がアルファベットで書かれますけれど、もしかしたら、šeはše
3のことかもしれません。edはed3なのかも!ĝu に至ってはĝu10かもしれないんです!!でもいちいち数字を振るのはめんどくさい!数字は下付きにしなきゃだし!!だからブログではそういうことを基本的にはぶいてあります。本当のところをちょっと覗き見してみたいという方は、さっきのリンク(ETCSLのTransliteration)をクリックしてシュメール語本文を確認してみてください!

・7つの「メ」
神殿や地位を捨てたイナンナは、冥界に向かうために7つの「メ」を身につけます。「メ」というのは、あるいは「神の力」、あるいは「霊力」などと言われています。 

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<「メ」を持ってくるコロスたち:このコロスは実験道場の面々>

舞台の上ではコロスたちが「me mu-un-ur-ur(「メ」を探す)」を何度も何度も繰り返して謡っています。「長いなぁ…」と感じる方もいらっしゃるでしょう。あるいは呪文のような繰り返しに半分あっちの世界に行ってしまう方もいるでしょう。それが神聖祝祭劇なのです。

さて、イナンナが身につける7つの「メ」は以下のものです。

šu-gur-ra men edin-na(野で頭を守る被り物)
na-za-gin di-di-la(小さなラビスラズリ)
na-nunuz tab-ba(卵形のラピスラズリのビーズ)
pala tug nam-nin-a(女主人の衣装のパラ)
šembi lu he-em-du he-em-du(「男よ来い、男よ来い」という眉墨)
 tu-di-da lu ĝa-nu ĝa-nu(「男よ来い、男よ来い」という胸飾り)
har kug-sig(金の腕輪)
gi-diš-nindan eš-gana za-gin(測り棒と測り縄)

5番目の「男よ来い、男よ来い」という眉墨(シェンビ)。前回は舞台上で眉墨を書きましたが、今回は狂言面でそれを表現しました。

054inana
<左から「測り棒と測り縄」、「首飾り」、「金の腕輪」を持つコロス>

SnapShot(5)
<神官が「メ」をつけている間、「メ」を持つコロスはなぜか踊っています(笑)>

SnapShot(6)
<すべての「メ」を身につけた女神イナンナ>

また、「メ」に関しては、過去のブログや『みんなのミシマガジン』にも書きましたので、どうぞ~。
http://inanna.blog.jp/archives/1031419592.html
http://www.mishimaga.com/coffee-issatsu/013.html

 ・ニンシュブルに託す

冥界に赴こうとする女神イナンナは、大臣であるニンシュブル(Junko☆:実験道場)を呼び、「もし自分が三日三晩帰られなければ神々のもとに行くように」と託します。上掲の原文では28~72行の部分です。

長い…。

一昨年に「山のシューレ」@二期倶楽部で上演したときにはすべてやったのですが、さすが長すぎるので、今回はちょっと省略しました。それでも長い。

SnapShot(7) 祈り
<イナンナに呼ばれて馳せ参じるニンシュブル。彼女の手は礼拝の形>

SnapShot(10)
<イナンナに後事を託されるニンシュブル>

ちなみに女神イナンナの声を担当するのは声楽家の辻康介。そしてニンシュブルの声は浪曲師の玉川奈々福です。

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<辻康介(左)・玉川奈々福(右)>

・冥界に向かう

7つの「メ」を身につけ、そしてニンシュブルに後事を託した女神イナンナは冥界へと旅立ちます。

帰らざる道を辿り辿り
  あらゆる地位や神殿を捨て
行くも帰るもこれやこの
  7つの霊力を身につけ
逢う人もなき黄泉の坂
  イナンナはただひとり
行けばほどなくむばたまの
  冥界への道を辿りつつ旅を続けた