山のシューレでの『イナンナの冥界下り』のリハーサルと、その後のお食事会が終了!部屋に戻って来ました。

一度通しただけだから、リハというよりは能の申し合わせに近いですね。

さらには昨夜、突然思いついたことを玉川奈々福さんに「ねえ、ねえ。こんなのやって」とメールでお願いしたり(これがひとつやふたつではないのです)、また今日もやりながら「やっぱこうした方がいいな」と突然変えたりと、明日もどうなるかわからない『イナンナ』なのです。

先日のプレ勉強会で、精神科医の大島さんが「イナンナと、冥界の女王エレシュキガルは表裏一体(双方が双方のシャドウ)ではないか」ということを話されました。シャドウなんていうとユング心理学?とお思いの方も多いと推察仕りますが、さにあらず。

「ユングはあまりにも無意識の世界にリアリティを感じ過ぎていた」という大島さん。元型のそれと同じ「シャドウ」という語を使ってはいますがちょっと違うのです。

この話は、近いうちにテープ起こしをしてまとめる予定で~す。

で、そのときの話がすごく面白かったので、そんなことも演出には入れました。

双方が双方のシャドウといっても、どちらかが本当の姿で、どちかが無意識界の表象、というわけではありません。「心」を持つ以前のイナンナと、「心」を持ってしまったエレシュキガル(姉)。

これは「心」を持つ前の自由に飛び跳ねていた自分と、「心」を持ってしまったがためにあれこれ考えて自由に飛ぶことができなくなった自分でもあるのです。

で、これって『古事記』のスサノオとアマテラスに似ているでしょ。スサノオはただ挨拶に行っただけなのに、アマテラスは我が国を奪おうとしての行為だと思って軍装して待つ。

「え~、そんなつもり全然なかったのに~」というスサノオに「うそこけ!」と疑うアマテラス。この両者の関係に、イナンナとエレシュキガルはなんか似ているのです。

別々の時間に存在する「自己」が、いまここで時空を超えて同時に存在しちゃった…っていうドッペルゲンゲルみたいなふたりなのです。

…てなわけで、今回の上演の最後の舞(踊り)では…

・エレシュキガル(姉):近代的な理知を持つ:三味線で表現

・イナンナ(妹):古代的なパッパラパー:能で表現

…という感じで作っています(って、これ突然、2日ほど前に「そうしますね、よろしく~!」ってLINEしたのですが)。