さて、前回は「天(アン=an)」と「地(キ=ki)」を紹介しました。今回は「冥界」です。
▼冥界は山
「大いなる天より、大いなる地へ、その耳を立てた(心を向けた)」イナンナは、次に「天を捨て、地を捨て、冥界に下り」ます。
「冥界」のシュメール語は「クル」です。ローマ字で書くと「kur」。
楔形文字では、こうなります。
おお、なんかかっこいいですね!
では、古い字体を紹介しましょう。ウルク古拙文字から。
これとか… これとか。
これはかっこいいというよりかわいい。では、これよりはちょっと新しいウル第三王朝の文字を。
これとか… これとか…
最初のはウルク古拙文字の右側のものをラインだけにして、時計回りに90度回転させたものですね。あとのは、もうお団子になっちゃってます。
冥界にお団子というのは、どうも似つかわしくない…と思っていると、もうひとつ。
丸いのが尖がりました。あれ?これってひょっとしたら…。
そうです。この回転を元に戻してみますね。
そうそう。三角が3つといえば、漢字の「山」です。ちなみに甲骨文字ではこうなります。
そうなのです。
実は「冥界」と訳される「クル(kur)」は、もとの意味は「山」なのです。
▼『古事記』でも冥界は山だった
ちなみに「クル(kur)」には、「山」だけでなく「異国」という意味もありますし、あるいはただ単に「土地」という意味でも使われています。
でも、どちらにしろ「山」が原意です。
いまの人に「冥界」ってどこにあると思う?と尋ねると、多くの人は「地下」と答えますが、メソポタミアでは冥界はどうも山にあったようなのです。
で、実はこれは古代日本人の冥界観にも通じるところがあります。
日本の神話で最初に亡くなるのは「イザナミの命(みこと)」です。火の神を産んだときに、その火で「ほと(性器)」を焼かれて死んでしまうのです。そこで葬られたところが「山」なのです。
「其の神避りましし伊邪那美の神を葬りしは、出雲の国と伯伎の国の堺、比婆の山なり」と『古事記』にあります(ここで「堺」ということも重要ですが、それはまた)。
冥界に行ってしまった妻イザナミを追って、夫イザナギは黄泉の国に行くのですが、そこで変わり果てた妻の姿を見て逃げます。それに怒った妻がさまざまな追手を派遣して追わせるのですが、そこでもやはり…
「黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本にある桃の子(み)三箇(みつ)を取りて待ち撃てば」とあります。
まず、黄泉の国と生者との境にあるのは「黄泉比良坂(よもつひらさか)」という坂(坂という語は堺という語と同根)。
そして、そのあとにイザナギが「坂本に到りし時」とあるでしょ。「坂本」というのは、坂(山)の下、すなわち山への上り口をいいます。
となると『古事記』の時代には、死者が住むのは山の上で、生きる者は山の下に住んでいる、そういう考えがあったのでしょう。
で、シュメールもそうなのかも知れません。
▼下るは上る
ということをいうと、勘のいい方は「だって『冥界に下る』って書いてあるじゃないか」と思われるでしょう。
確かに!
でも、実は「下る」に当たるシュメール語は「エド(ed3)」。
これには「下る」という意味と「上る」という意味の両方あるんです(この語に関してもいつか詳しくお話します)。
だから本当は「冥界上り」って訳した方がいいのかな、などとも思ったりします。 でも、現代人の感覚からすると「冥界上り」って変ですね。
▼チベットの姨捨
さて、死者の国が山の上にあるということで思い出すのは、1987年にチベットで偶然出会った「おば捨て」の一行。
鳥葬の山を探して自転車でラサを走っていたときのことです(あの頃はほんと、元気だった。3,650mの高地を自転車で闊歩して平気だった)。
向こうから輿の上にお婆ちゃんを乗せた一行が派手な音楽を奏しながらやってきました。最初は「おばあちゃんのお誕生日かな」とも思ったのですが、みんな泣いています。ただ、輿の上のおばあちゃんだけがニコニコしている。
近くにいた中国語がわかる若い女の子に尋ねると、「あれは姨捨だ」と教えてくれたのです。
「なぜ、おばあちゃんはニコニコしているの?」と尋ねると、次のように教えてくれました。
これからお婆ちゃんが行くところは、あの(と、指し示してくれた)山の中腹の小屋。あそこに入ったお婆ちゃんには、毎日、ちゃんと食事が届けられる。でも、お婆ちゃんが自分のペースで、その食事を減らしていく。そうすると徐々に食欲もなくなり、「生きたい」という気持ちもなくなって眠るように亡くなる。
で、この山の反対側が鳥葬の山で、亡くなったあとの体はあそこから観音様のもとに届けられる。
観音様のもとに行けるんだからニコニコしているんだと。
▼日本でも山の死者の魂の行くところ
そういえば、日本でも『古事記』だけではない。亡くなった方の魂は山に行くという考え方を残している地方はいまでもあります。また、神様はだいたい山の上にいます。
「黄泉」は日本では「よみ」と読みますが、音は「こうせん」。
「黄泉(こうせん)」 が最初に出てくるのは、たぶん『春秋左氏伝』かなぁ。そこでは地下の隧道にあることになっています。
『古事記』で「よみ」に「黄泉」という漢字を充てたのは、おそらく太安万侶ですね。
「よみ」という言葉を発したとき、ヒエダノアレイが頭の中でイメージしたのは山の上で、それを筆録した太安万侶がイメージしたのは地下隧道だったのかも。…などと考えると、ちぐはぐなふたりが四苦八苦しながら『古事記』をまとめているさまが想像できて楽しいですね。
あ、そうそう。
シュメールと古代日本が似ているからといって、安易に両者を結びつけるのはやめてくださいね。もし、したいならばちゃんとシュメール語を何年も勉強して、それでも結びつくと思ったらどうぞ~。
▼冥界は山
「大いなる天より、大いなる地へ、その耳を立てた(心を向けた)」イナンナは、次に「天を捨て、地を捨て、冥界に下り」ます。
「冥界」のシュメール語は「クル」です。ローマ字で書くと「kur」。
楔形文字では、こうなります。
おお、なんかかっこいいですね!
では、古い字体を紹介しましょう。ウルク古拙文字から。
これとか… これとか。
これはかっこいいというよりかわいい。では、これよりはちょっと新しいウル第三王朝の文字を。
これとか… これとか…
最初のはウルク古拙文字の右側のものをラインだけにして、時計回りに90度回転させたものですね。あとのは、もうお団子になっちゃってます。
冥界にお団子というのは、どうも似つかわしくない…と思っていると、もうひとつ。
丸いのが尖がりました。あれ?これってひょっとしたら…。
そうです。この回転を元に戻してみますね。
そうそう。三角が3つといえば、漢字の「山」です。ちなみに甲骨文字ではこうなります。
そうなのです。
実は「冥界」と訳される「クル(kur)」は、もとの意味は「山」なのです。
▼『古事記』でも冥界は山だった
ちなみに「クル(kur)」には、「山」だけでなく「異国」という意味もありますし、あるいはただ単に「土地」という意味でも使われています。
でも、どちらにしろ「山」が原意です。
いまの人に「冥界」ってどこにあると思う?と尋ねると、多くの人は「地下」と答えますが、メソポタミアでは冥界はどうも山にあったようなのです。
で、実はこれは古代日本人の冥界観にも通じるところがあります。
日本の神話で最初に亡くなるのは「イザナミの命(みこと)」です。火の神を産んだときに、その火で「ほと(性器)」を焼かれて死んでしまうのです。そこで葬られたところが「山」なのです。
「其の神避りましし伊邪那美の神を葬りしは、出雲の国と伯伎の国の堺、比婆の山なり」と『古事記』にあります(ここで「堺」ということも重要ですが、それはまた)。
冥界に行ってしまった妻イザナミを追って、夫イザナギは黄泉の国に行くのですが、そこで変わり果てた妻の姿を見て逃げます。それに怒った妻がさまざまな追手を派遣して追わせるのですが、そこでもやはり…
「黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本にある桃の子(み)三箇(みつ)を取りて待ち撃てば」とあります。
まず、黄泉の国と生者との境にあるのは「黄泉比良坂(よもつひらさか)」という坂(坂という語は堺という語と同根)。
そして、そのあとにイザナギが「坂本に到りし時」とあるでしょ。「坂本」というのは、坂(山)の下、すなわち山への上り口をいいます。
となると『古事記』の時代には、死者が住むのは山の上で、生きる者は山の下に住んでいる、そういう考えがあったのでしょう。
で、シュメールもそうなのかも知れません。
▼下るは上る
ということをいうと、勘のいい方は「だって『冥界に下る』って書いてあるじゃないか」と思われるでしょう。
確かに!
でも、実は「下る」に当たるシュメール語は「エド(ed3)」。
これには「下る」という意味と「上る」という意味の両方あるんです(この語に関してもいつか詳しくお話します)。
だから本当は「冥界上り」って訳した方がいいのかな、などとも思ったりします。 でも、現代人の感覚からすると「冥界上り」って変ですね。
▼チベットの姨捨
さて、死者の国が山の上にあるということで思い出すのは、1987年にチベットで偶然出会った「おば捨て」の一行。
鳥葬の山を探して自転車でラサを走っていたときのことです(あの頃はほんと、元気だった。3,650mの高地を自転車で闊歩して平気だった)。
向こうから輿の上にお婆ちゃんを乗せた一行が派手な音楽を奏しながらやってきました。最初は「おばあちゃんのお誕生日かな」とも思ったのですが、みんな泣いています。ただ、輿の上のおばあちゃんだけがニコニコしている。
近くにいた中国語がわかる若い女の子に尋ねると、「あれは姨捨だ」と教えてくれたのです。
「なぜ、おばあちゃんはニコニコしているの?」と尋ねると、次のように教えてくれました。
これからお婆ちゃんが行くところは、あの(と、指し示してくれた)山の中腹の小屋。あそこに入ったお婆ちゃんには、毎日、ちゃんと食事が届けられる。でも、お婆ちゃんが自分のペースで、その食事を減らしていく。そうすると徐々に食欲もなくなり、「生きたい」という気持ちもなくなって眠るように亡くなる。
で、この山の反対側が鳥葬の山で、亡くなったあとの体はあそこから観音様のもとに届けられる。
観音様のもとに行けるんだからニコニコしているんだと。
▼日本でも山の死者の魂の行くところ
そういえば、日本でも『古事記』だけではない。亡くなった方の魂は山に行くという考え方を残している地方はいまでもあります。また、神様はだいたい山の上にいます。
「黄泉」は日本では「よみ」と読みますが、音は「こうせん」。
「黄泉(こうせん)」 が最初に出てくるのは、たぶん『春秋左氏伝』かなぁ。そこでは地下の隧道にあることになっています。
『古事記』で「よみ」に「黄泉」という漢字を充てたのは、おそらく太安万侶ですね。
「よみ」という言葉を発したとき、ヒエダノアレイが頭の中でイメージしたのは山の上で、それを筆録した太安万侶がイメージしたのは地下隧道だったのかも。…などと考えると、ちぐはぐなふたりが四苦八苦しながら『古事記』をまとめているさまが想像できて楽しいですね。
あ、そうそう。
シュメールと古代日本が似ているからといって、安易に両者を結びつけるのはやめてくださいね。もし、したいならばちゃんとシュメール語を何年も勉強して、それでも結びつくと思ったらどうぞ~。