▼「心」は文字が作った

そろそろ限界に来た<「心」の時代>の次の時代を考えるのに『イナンナの冥界下り』を上演することが大切だということを前回の最後に書きました。

それは『イナンナの冥界下り』は、また「心」がなかった時代の物語だからです。

ちなみに、ここでいう「心」というのは、漢字の「心」であって、僕たちがひとりひとり別々にイメージしちゃう「こころ」ではありません。「こころ」自体はあまりに曖昧な概念だし、その割には思い入れが強い人が多いので、それは脇に置いておくことにしましょう。

紀元前1,000年くらいにできた「心」の機能は、ひとことでいえば「時間を知る」ことです。

あ、ちなみにその時代の「心」という文字は、これです。

心

辞書などには「心臓の象形」と書いてありますが、これは男性の性器でしょ。

ま、それはともかく…。

で、この時間を知る「心」というのは「文字」が生み出したようなのです。

「文字」と「心」と、それから性器やお腹との関係については、『あわいの力(ミシマ社)』をはじめ、いろいろなところで書いたので、ここでは省略しますね。

『イナンナの冥界下り』は、「心」がない<プレ文字社会>の神話です。これが「心」の限界の時代に『イナンナの冥界下り』を上演する意味なのです。

▼できたばかりの文字は<プレ文字社会>も記述する

文字がない時代の神話とはいっても『イナンナの冥界下り』は、むろん文字で書かれています。しかし、文字ができた頃に書かれたものは<プレ文字社会>のことにも(それとは知らずに)言及してしまっています。

プレ文字社会

最初期の文字で書かれたものからは、<プレ文字社会>から<文字社会>へと推移するときのさまを読むことができます。

いまが<文字社会(「心」社会))>から<アプレ文字社会(アプレ「心」社会))>への推移のときであるならば、数千年前の推移の時期にどのようなことが起きたのか、それを知ることは意味のあることだと思うのです。

で、それを机の上で学問として研究する方もいれば、僕たちのように身体を使って、語ったり、上演してみるという奴らがいてもいいと思うのです。それにによって見えてくるものがあるかもね、なんて思うのです。

▼<プレ文字社会>の古典

<プレ文字社会>のものとして現在、私たち(在野の非・研究者)が比較的容易に読めるものとしては…

(A)『古事記』
(B)甲骨文字で書かれたもの
(C)シュメール語の神話・伝説
(D)ヒエログリフで書かれたもの
(E)『イーリアス』、『オデュッセイア』(ホメーロス)

…などがあります。

でも、これはすべてそのまま信じていいというわけではありません。

たとえば(E)の『イーリアス』は、その写本が最古のものでも10世紀(紀元前ではなく紀元後ね)。

紀元前8世紀半ばにホメーロスによって書かれ、紀元前6世紀後半に文字化され、紀元前2世紀にほぼ今日の形にまとめられたとされてはいますが、その時代のものを見ることはできません。ですから、『イーリアス』に関していえば、<プレ文字社会>の一次資料として使うには慎重になった方がいいですね。

で、これは実は『古事記』もそうなんです。現在、確認し得る最古の写本は1370年代。かなり新しい。ですから『古事記』偽書説すら出ているくらいです。

また、(D)のヒエログリフで書かれたものに関しては、まだ習ったことがないの機会を見つけて学びたいと思っています。

▼語り手と書記

文字で書かれた<プレ文字社会>を考える上で、もうひとつ考えておかければならない問題は、語り手と筆記者との関係です。

『古事記』でいえば(序文の記述を信じれば)稗田阿礼が「誦習」していたものを太安万侶が書き記して、編纂したといわれています。

太安万侶は名前からして帰化人ですね。文字を知らない原日本人である稗田阿礼が朗誦するのを、太安万侶が漢字で筆録したのが『古事記』なのですが、しかしそれは稗田阿礼が朗誦していたそのままのものではない可能性が大です。

変わってしまう原因のひとつは相手です。語りというのは相手によって変わってしまいます。

金田一京助がアイヌの歌謡や語りを採集していたときに、彼がマイクを向けた途端に変わってしまったと書いています。能のようにテキストが固定されているものは別として(これですら変わる)、あらゆる歌や語りは相手によって変わるのです。特に相手の文化が自分と違うときには、大きく変容する可能性があります。

もうひとつは筆記者の問題です。

当たり前の話ですが、筆記者の習得している文字で書写できないものは書写ができません。この問題も2つあり、ひとつは、ない単語は書けないというもの。

たとえば「みかん」を英語ではうまく訳せません。「かすみ」「もや」「きり」の違いもうまくいかない。こういう場合、話者が相手にわかるように変化させてしまったり、あるいは筆記者が適当な語句をあてはめて誤魔化したりします。『古事記』の中にもよくあります。

もうひとつは音の問題。たとえばカタカナでは英語を写せませんし、アルファベットではオランダ語は書写できません。もうちょっと正確にいえば、書写はできても再現ができない。というか、それ以前に筆録者が、ちゃんと聞き取れているかどうかも疑問。

まあ、そのほかにもいろいろありますが、そんなことも一応含んで考えていきましょうね。