イナンナの冥界下り

シュメール神話『イナンナの冥界下り』や天籟能の会のためのブログです。

2月の『イナンナの冥界下り』東京公演

2月の『イナンナの冥界下り』東京公演は、2月16日に銀座の日本デザインセンター(13階POLYLOGUE)で開催されます。

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ブログやメルマガなどではお知らせしましたが、安田や奈々福のTwitterなどではほとんどお知らせをしませんでした。すみません。

実は会場のセッティングなどを考えてみたところ客席が100席ほどしか取れない ことがわかり、あまりお知らせをしないことになったのです。

おかげさまで現時点で満席になっております。

次の公演は4月と10月を予定しております。詳細が決まりましたら、お知らせをいたします。ぜひ、お出ましください。 

ダンスワークショップ 第六回ご報告(蜜月稀葵)

身体のパーツを動かす part2 
 ~ベリーダンスのテクニックを使って~ 

厳しい寒さと雪予報の中お越しくださいまして本当にありがとうございました。
心から御礼申し上げます。


さて、今回も動きまくりました!
前回に引き続きの”骨盤”と”肩”です。

○体操(飛龍会メソッドも含めて)
・四つん這いからの丸めるそる動き
・↑の動きを背中に人を乗せてのトレーニング
・大転子
・肩と肩甲骨を肋骨からひきはなす
・背中で匍匐前進
・蹴り

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○ベリーダンステクニック
・今回もひたすら骨盤。とくに大転子を動かしていきました。
・腕と一緒に大転子を動かす


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ワークショップは以後も続くそうですので、内容を考え直したいと思います。
身体の使い方をベースに進めていこうかなと思います!
 

次回、第七回は、
2016年2月21日(日)17:00~19:00

場所
カマレホウジュ
中央区銀座1-23-4明松ビル201 


ご予約
camale.info@gmail.com
080-7952-6709


お待ちしております!

てんらいWS シュメール語 第五回 (髙井啓介) のお知らせ

1月のシュメール語ワークショップのお知らせです。今回もお知らせするのが遅くなってしまい申し訳ございません。

●シュメール語ワークショップ(第5回)
1月25日(月)  19:00-21:00
講師:高井啓介
第五回:エレシュキガルと一緒に怒る
会場:東方學會2F会議室
住所:千代田区西神田二丁目4-1
最寄駅:神保町 
基準受講料:2,000円
予約:info@watowa.net 

今月の主人公は冥界の女王エレシュキガルです。
いつもの通りエレシュキガルの人物像に迫るところからはじめます。
そして粘土板に文字を書きます。先月からは楔形文字テキストの解読も始めました。
さらに『イナンナの冥界下り』の物語について楽しく多方面から考えて参りましょう。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 

てんらいWS 発声 第六回(香西克章)

 身体の理解が深まり、声の解放、声量 等、見張る成果があがっております。
 第6回 第7回、残す2回となりました、初めての方もどうぞお越しください。

 1/22(金)19:00~21:30 @三田フレンズ 地下1階 第2音楽室
参加費は2500円(ですが、基本おさいせんです!)
第1回から体を知る、頭部 、首、体幹部に続き、第5回では、脚をとり上げました。
 今回第6回 そして第7回は、総仕上げ!
全身の繋がりを考えながら、五つの母音、グレゴリオ聖歌、イナンナ賛歌を歌います。

イナンナプロジェクト、最近のご報告。(玉川奈々福)

あけましておめでとうございます!

……というには、松もすでにとれ、時間が経ってしまっておりますが。

本年もイナンナプロジェクトをよろしくお願い致します。

2月の銀座・日本デザインセンター公演が近づいてきつつ、4月の浅草・西徳寺公演の打ち合わせをしつつ、3月の「海神別荘」の、お稽古が始まっております。

 チラシ案表2 (2)


「海神別荘」。泉鏡花の幻想戯曲三部作の中で最高傑作と言われながら、その幻想性ゆえに上演困難とされた作品を、能・狂言・浪曲・人形・語り……等の伝統芸能の身体を用いたコラボレーションで上演する、というものです。


 チラシ裏最終


まずは安田登先生から来た第一稿の台本を、声を出す出演者で読み合わせをしてみました。


泉鏡花=東雅夫 

公子=安田登 

美女・侍女=玉川奈々福 

沖の僧都=奥津健太郎

 

東雅夫さんは、文学者。怪談雑誌『幽』の編集顧問であり、数々の怪談アンソロジーを世に送り出し、著作も多数ある作家であり、もちろん、泉鏡花についても造詣が深くておられるのですが、すばらしい美声の持ち主でいらっしゃいます。

というわけで、今回、泉鏡花役に抜擢。

鏡花の原作は、当然美文で書かれており、ト書き部分もすばらしいのですが、ふつうに上演されると、「ト書き」は……飛ばされますよね。ト書きですもの。

ところが今回は、鏡花がト書きを読むという趣向も入ります。

 

一度声に出してみると、読み合わせでありながら、作家の観点、また古典芸能の実演者たちの観点から、ここはこうしたらどうだああしたらどうだ……と、読み合わせにとどまらず、結局演出効果の話などになり、それぞれの意見を取り入れた上で第二稿を作ることになりました。

 

その間に、カメリアホールに行って、装置の打ち合わせ。

なんと、原作を読んで、カメリアホールの舞台監督さんが、あらかじめ案を作っていてくださいました。

能舞台をイメージしながら、原作のイメージをどう生かすか……案をはさんで、動きなども想像しながら、基本的な装置案ができました。

 

そして、先日、出来上がった第二稿を持って、再度の読み合わせ。

さあ、ここから、声を出さない演者たちのイメージを作って行きます。

飯田美千香さんの人形が、美女を演じ、ダンサーの蜜月稀葵さんが、女房を演じ、子方や、黒潮騎士たちが、その脇を固め……。

 

歌舞伎や新派などで演じられた「海神別荘」とはまた違う、「伝統芸能の芸尽くし」たる舞台になりそうです。

 

すでにお申し込みの方もおられるかと思いますが、まだの方は、全席指定ですので、なるべく早くお申し込みいただいたほうが、前方のお席をご用意できるかと思います。

お申し込みをお待ちしております。

 

3月5日(土)1430開場 1500開演 

場所:亀戸・カメリアホール(JR総武線で秋葉原から4駅8分「亀戸」駅下車 北口徒歩2分)

全席指定 予約5000円 当日5500円

ご予約はカメリアホールまでお願いいたします。

03-5626-2121 インターネット予約もあります。


てんらい会員の方は割引料金でご予約いただけますので、てんらい事務局のほうにお申し込みくださいませ。

てんらい会員入場料:全席指定 予約4000円 当日4500

event@inana.tokyo.jp 080-5520-1133

(9時~20時)

 

 

そして、「イナンナの冥界下り」、場所が変わるたび、演出や台本も変えてゆきます。

日本デザインセンター公演のご予約を受け付けております。

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2月16日(火)18時半開場 19時開演

場所:日本デザインセンター13POLYLOGUE(中央区銀座4-13 銀座4丁目タワー13F 東京メトロ銀座駅、東京メトロ・都営地下鉄東銀座駅より徒歩すぐ)

全席自由(限定100名様) 

一般料金:予約5000円 当日5500円

てんらい会員料金:予約4000円 当日4500円

 

ご予約はイナンナプロジェクト事務局へ。

 event@inana.tokyo.jp 080-5520-1133

(9時~20時)

ダンスワークショップ 第五回ご報告(蜜月稀葵)

身体のパーツを動かす part1 ~ベリーダンスのテクニックを使って~ 

年の瀬のお忙しい中、沢山の皆様がお集まりくださいました。
ありがとうございました。心から御礼申し上げます。


○体操(飛龍会メソッド)
・おしり歩き
・おしり歩きからコロコロ
・合座から左右にコロコロ
・合席からぐるんぐるん
・イモムシ
・シーソー

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○ベリーダンステクニック(骨盤)
・ひたすら骨盤。とくに大転子を動かしていきました。
※大転子が動くと足が高く上がるようになります。

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身体の稽古は物理です。
「押すから出る」。以上。すごくシンプル。
物理の原理が身体でわかると勝手に自由に動くようになります。

今回は、動きに時間がかかりまして、クリエイションには入れませんでしたっ。。。 


皆様、筋肉痛になりませぬように。。。


ダンスと武道はとてもよくにています。
武道の動き大好きです。足技が特に好きです。
次は蹴り、回し蹴り、踵落としなんかも皆様とやってみたいです。


来年の予定です。

2016年1月24日(日)17:00~19:00
≪第六回:身体のパーツを動かすpart2。~ベリーダンスのテクニックを使って≫

2016年2月21日(日)17:00~19:00
≪第七回:ダンサーが毎日やっている稽古を簡単バージョンで体験≫

場所
カマレホウジュ
中央区銀座1-23-4明松ビル201 


ご予約
camale.info@gmail.com
080-7952-6709

 

シュメール語ワークショップ 第四回ご報告(髙井啓介)

シュメール語のワークショップの第四回目が12月21日(月)に無事終了しました。会場は今回も塚田有一さんのお花のスタジオ(リム・グリーン)が入っている東方學會ビル(神保町)の2F会議室でした。

出席者は22、3名程度だったでしょうか。今回は冥界の門番の神ネティさんが主人公でした。

シュメール語のワークショップは毎回三部構成になっています。
(1)その月の主人公についての簡単なレクチャー
(2)その月のフレーズを楔形文字で粘土に刻む
(3)舞台『イナンナの冥界下り』の台本のもとになったテキストと単語帳を使って文法を学ぶ
今回もそういう感じで進行しました。

最初に現在ひっそりと進行中のシュメールビール大作戦(仮称)についてのご報告から。これはもう少し形になってきたら改めてブログでもご報告するつもりです。 

IMG_2037ちなみに右の下手な絵は『ビールの入った甕に葦のストローを指す』の図


まずはじめは、『イナンナ』の舞台の台本として使われるテキストから、毎月、みなさんに覚えていただきたいシュメール語のフレーズを最初にご紹介するようにしています。
今回のフレーズはこれ↓↓でした。

『エガル イドゥ エガル エガル ネティ エガル ディリグシェ ガクル』
(門を開け!門番よ!門を開け!門を開け!ネティよ!門を開け!ひとりで私は入っていきましょう。)

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イナンナは七つのメを携えて冥界のガンゼル宮殿の入り口にやってきます。冥界のガンゼル宮殿はラピスラズリでできていてその奥深くに女王エレシュキガルが住んでいます。この宮殿には七重の城壁がめぐらされていて、その一つ一つに門があります。冥界のなかに入っていくには、この七つの門をくぐり抜けなければならないのでした。

この門を守るのがネティ神。門番にあたるシュメール語はイドゥ(i3-du8)です。この門に到着したイナンナはネティに向かって開門する(エガル e2 gal2-lu)ようにと促します。そのときにイナンナがネティに言ったのが先程ご紹介したフレーズです。開門されたら、一人きりで冥界に私は入っていく(ga-kur9)という決意をイナンナはネティに伝えます。

ネティはイナンナにどこに行くのかとか、何をしにきたのか、などと質問しつつ、最後には女王エレシュキガルのところに伺いを立てに行くことになります。以下どう展開していくかは来月のお楽しみです。

そして、今回みなさんに粘土板に書いていただいたのもこのフレーズでした。これまで三ヶ月にわたって続けているおかげで、楔形文字を粘土に刻むということにみなさんもうだいぶん慣れてきていらっしゃいます。とても美しい楔形文字に今回も出会いました^^

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さて恒例の今回のはるき君の楔形文字アート。「ダースベイダー」でした。タイムリーな、実にタイムリーな。

ダースベイダー


みなさんに書いて頂いている粘土板の写真を何枚か載せました。とても美しいです。綺麗でとても読みやすく理解しやすい。

ところが、実際の粘土板はもう少し読みにくい。解読に少し頭を使う。

それはなぜかといいますと、文字が実はとてもくっついて書かれているからです。一つ一つの楔も実はもう少し深く厚く粘土に入り込んでいる。実際の粘土板はここの写真よりはもう少し読みにくいです。

ここまで、だいぶん文字を書くのになれて頂いたところで、次回からはもう少し文字をくっつけて書いていって頂こうと思っています。そうすると実際の書記が書いた楔形文字テキストの雰囲気がでてくると思います。
 
このあとで、みなさんに楔形文字テキストの解読に挑戦していただきました。今回はじめての試みです。P268918_l   P268918
                                         CBS13908 (ニップルで発見されたイナンナの冥界下りのテキスト、ペンシルバニア大学図書館所蔵)


上から4行目から5行目までを解読してもらいました。イナンナの依頼にネティが答えようとする場面です。テキスト解読のためには楔形文字の読み方を書いたサインリストを用意します。そのサインリストを見ながら文字の読み方を確定し、文字と文字をつなげて単語を確定していきます。単語は単語帳を調べると意味がわかります。

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                                               サインリストのようなもの

4   dne-ti i3-du8 gal kur-ra-ke4                  冥界の大いなる門番ネティ神は
5   kug dinana inim mu-na-ni-ib-gi4-gi4  清らかなるイナンナにことばを返した
 
最後に文法をちょっと考えながら解読した文章の意味を確認して、ワークショップが終了しました。解読はみなさんとても真剣。最初は、解読!えっ!という感じでしたが、最後には解読するワクワク感を味わっていただけたのではないかと思います。これからも解読を続けます。お疲れさまでした^^


次回のワークショップはもう来年になりますね。
2016年1月25日(月)に同じ会場にて。
ご予約は、和と輪 info@watowa.net まで。

次回の主人公は冥界の女王エレシュキガル。その夫ネルガルについても考えます。
楔形文字本文の解読もどんどん面白くなっていくと思います。
 
どうぞ次回もよろしくお願いいたします。

てんらいWS 発声第5回WS終了!(香西 克章)

12/18木)19:00~21:30 三田フレンズ 地下1階 第2音楽室 にて終了しました。
第1回から体を知る、頭部 、首、体幹部に続き、第5回では、脚をとり上げました。
身体を支える脚の事を、私達は案外しりません。
そして、脚が、呼吸や声に密接に関わっています。
脚、大腰筋、横隔膜、発声! 5つの母音で発声し、グレゴリオ聖歌、イナンナ3拍子を歌いました。
 来年は、第1〜5回までをまとめ、実践編に入ります!

ガチンコ浪曲講座第五回(玉川奈々福)

五回目になりました、奈々福の「ガチンコ浪曲講座」@カメリアプラザ第一和室。
前回から、いよいよ、浪曲の核心たる「節」、冒頭の「外題づけ」と呼ばれる節のお稽古に入っておりますが。
今回はそれをもっと深めました。
「手本を百回聞くように」という鬼のような課題を出しているせいか、節はちょっと難しすぎと思うせいか。
いい~感じの脱落率で、17名様のご参加。うふふ。
この講座、ご新規は受け付けておりません。積み重ねて行く、ということをやってもらっています。
いい感じの人数で、お一人お一人と、がっつり向き合えます。

まずは、声を出すこと、なので、今回も啖呵の復習から。
「ああなりまして、こうなって……」

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お腹からまっすぐ声を出しておいてから、節のお稽古。
みなさん、なかなか、三味線とともにうなる機会ってないですよね。
三味線の音を耳になじませてもらい、糸に乗る声をださなければならない。
だから、とにかく三味線を弾いて、声を出してもらいましたが、
「お手本を、百回聞いてきてね」という鬼のような課題が功を奏したか、皆さん、ちゃんと糸に乗ります。
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そして、最後に、啖呵(浪曲のセリフ部分)のお稽古。
書いてある台詞を上手に読めばいい、というのではないのです。
「ああなりまして、こうなって……」がいかに「言えない」かを実感してもらったように、
啖呵の、間合い、尺、声の押し引き、これにもテクニックが詰まっています。
これを、このまんま、身体に写し取ることが、まずは大事。

それにしても、声を出すことも大事だから、いっぱいいっぱい、うなり、語り、してもらいました。
みなさんいっぱいいっぱい声出しましたねー!!!
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あれ? 前回、「次回は、三味線の音を聞き分ける、耳を鍛える稽古をします。そして浪曲のあんな節、こんな節をご紹介します」といったのに。
それ、しなかった。
次回こそ、しますね。
そして、最終回は、発表会です!

イナンナと冥界(03)

▼自分の「死」は認識できない

前回は…

古代日本語で「しぬ」は「死ぬ」ではなく、魂が遊離して、しなしなになるという「萎(し)ぬ」であった

…ということを書きました。

古代の日本語に「死」という言葉も、その概念もなかった。人は、しなしなになる「しぬ(萎ぬ)」と、元気になる「いく(活く)」とを永遠に繰り返す存在であり、恒久的な「いく(活く)」もなければ、恒久的な「しぬ(萎ぬ)」もない、そう昔の日本人は考えたのです。

「そうは言ったって、古代の人だって生き返らない人がいたのは事実でしょ」

確かにそうです。

…で、今回はこれについてふたつの視点からお話しましょう。

まずは自分自身の死、それから他者の死です。

▼自分自身の死は認識できない

死者の国を「大いなる虚構的真実」だと前に書きましたが、「死」も「大いなる虚構的真実」です。なぜなら、僕たちは他人の「死」を見ることはできても、自分の「死」を体験することはできないからです。

弘法大師 空海が…

生まれ生まれ生まれ生まれて
生の始めに暗く
 
死に死に死に死んで
死の終りに冥(くら)し

…と書いたように、僕たちにとって自分の「生の始め(誕生)」「死の終わり」は暗闇であり、認識をすることができません。

たとえばよそ見をしながら歩いていて電信柱にぶつかったとしましょう。「電信柱にぶつかった」と気づくのは、電信柱にぶつかったあとです。当たり前ですね。

電信柱

で、(おそらく)「死」もそうです。いくら他人が「この人はもう死ぬ」と言ったって、本当に「死」が実現されるのは死んだときでしかない。「あなたはもうすぐ死にます」と言われて、自分も「ああ、このまま死ぬんだな」と思いながら、そのまま意識が絶えても、「あれ?」ってまた目覚めることだってあります。

自分が「死んだ」ということがわかるのは「死んだあと」なのです

だから、もうこれは永遠にわからない。

まあ、ほんとはね、まだ、自分がその状況になったことがないから断言はできないのですが、僕たちは自分の「死の瞬間」を認識することができないんじゃないか、そしてそうであるならば「死の絶対性」を、少なくても自分自身の体感からは確信することができないんじゃないか、そう思うのです。

▼能には果てあるべからず


実は、自分が死ぬ瞬間にそれが認識できるかどうかを知るために、その練習として、たまに「眠りに落ちる瞬間」を認識してみようとしているのですが、これがなかなかうまくいきません。「その瞬間をGETしよう、GETしよう」とトライしながら眠るのですが、いつもその瞬間は覚えていないのです(寝つきがいいというのもあるかも知れませんが:笑)。

能を大成した世阿弥は…

「命には終わりあり。能には果てあるべからず」

…といいました。

これは「客観的事実としての"命"には終わりがあるかも知れない。だが、能を演じている自己という"主観的事実"には果てがない」という意味です。

能の演者の多くは最後の最後まで現役です。舞台の上で亡くなる人もいます。その人にとっては死というものは存在しない。旅に病んでまでも、夢で枯野を駆け巡った芭蕉のように、いつまでも舞台の上で舞い続けているのです。

▼他者の死

自分の死の認識は難しいとしても、僕たちは他者の死はたくさん実見していますね。

それは古代の人だってそうでしょう。人のこともあれば、犬のこともある。牛のことだってあれば、植物のことだってあった。

が、そう考えるのは「死がある」と思っている現代の僕たちだからです。「他者の死」といったって「死」そのものがなければ、他者の死もないのです。

…なんて言葉尻をとらえるのはやめて、さて、では僕たちは、何をもってそれを「死」とするのでしょうか。

人間に限っていえば、昔だったら「息を引き取る」、すなわち呼吸の停止が「死」でした。

また、ちょっと前までは、お医者さんが臨終の人の側にいて、息が止まったら聴診器を心臓に当てて、「ご臨終です。何時何分です」といい、その時間を死亡診断書に書き込み、これをもって「死」としました。

私事で恐縮ですが、僕が最初に人の死を意識したのは小学校1年生のとき。祖母の死でした。このときの記憶は、その後、いろいろと考える要素が多いのですが、それはさておき、文字通り「息を引き取る」というような静かな死でした。

「息を引き取る」というコトバが、実感として生きていた時代の話です。

また、エイズにかかったタイの人を看取ったときも、そうでした。都内某病院でしたが、もう痛み止めが効かなくなっていたので、ずっとマッサージをしていたのですが、「もう、大丈夫」と言って、その数秒後に息を引き取りました。これも静かな死でした。

身寄りのない彼の場合は、そのまま死亡と診断されましたが、ふつうのケースならば、そこでさらに機械的に呼吸をさせたり、心臓に電気ショックを与えたり、心臓マッサージをしたり、脳の活動も停止したかなどを調べたりして、やっと「死」として認定されるということも多いでしょう。

現代人が、それを「死」と認定するのはなかなか大変なのです。

しかし、これらだって時代が変わればどうなるかわからない。

そういうことによって診断された「死」ですら、「確実な死」ではないことは、脳死の議論などからも明らかです。

僕たちは、何かをもって「死を知る」のではなく、何かによって、それを「死と定義」しているだけなのです。心臓が止まり、息も止まり、脳が活動を停止した時点をして「これを死であるとしよう」と決めているのです。

▼死者がしゃべる

さて、いまここに(現代的にいえば)死んでいるように見える人がいるとします。

が、もし彼が自分に語りかけてきたらどうでしょう。それもはっきりと。

横たわる

現代人ならば、それを「幻聴」だといって片付けるでしょう。しかし、古代の人だったら、それを「い(活)きている」と思ったのではないでしょうか。

「人に口なし」といいます。口がある人、すなわち言葉は話す人は「死人」ではないのです。

「死人がしゃべったりするものか」というでしょう。あるいは目の前の死者の声が聞こえる人は、精神的に病を抱えている人だけだ、そういう人もいるでしょう。

しかし、昔は死者どころか山川草木、あらゆるものがしゃべっていたようです。

「大祓詞」というものがあります。6月と12月の大祓のときに読まれる祝詞(正確には祝詞とはちょっと違うのですが)です。

その中に…
荒振(あらぶる)神等をば神問はしに問はし給ひ。
神掃へに掃へ給ひて。
語(こと)問ひし磐根(いわね)樹根立(きねたち)、
草の片葉(くさは)をも語(こと)止めて…
…という句があります。

この祝詞によれば、かつては岩や樹木、草なども言葉をしゃべっていた

想像してみてください。山道を歩いていると岩や木や草までもがぺちゃくちゃおしゃべりしている。うるさいですね。都市の音楽もかなりうるさいですが、植物、自然におしゃべりされたら、もうめちゃくちゃうるさい。

もちろん、このおしゃべりはいわゆる言語的なおしゃべりとはちょっと違ったおしゃべりでしょう。日本の古典音楽やジャズなどをしている人は言語を使わない会話というが普通に成り立つことを知っています。自然のおしゃべりがそうだというわけではありませんが、言語的なおしゃべり以外のおしゃべりもあるのです。

ま、それはともかく、こうしたおしゃべりを止めたのが天孫である瓊々岐(ににぎ)の命(みこと)です。荒ぶる神々を掃討したことによって、岩や木や草のおしゃべりが止まったと大祓詞にはいいます。

そうなのです。岩や樹木や草などの「自然(naure=φυση)」は、天孫によって掃討された荒ぶる神らの一党に属する存在で、天孫=「人間が作った(art=τεχνη)秩序」「自然(naure=φυση)」に勝った瞬間です。

▼罰はあるけど法がない

自然のコトバを封印した天孫たちは「こころ」を持つ人たちであり、「こころ」を持たぬ<まつろわぬ>人たちを「荒ぶる神々」として説得、駆逐していったんではないかと思うのです。

あ、ちなみにここでいう「こころ」というのは、ふだん使う意味とは違うので、はじめての方は以下もお読みください。

【イナンナと心の時代】

「こころ」を持つ人たちの特徴は、文字を使うこと。すなわち言語を定着させる能力を持つことです。

コトバは世界を分節化しますが、文字はその分節化を定着させます。さまざまな事象が明瞭になるんです。

正邪を分け、善悪が分けられる。ルールもできる。

ちょっと余談…

子どもたちが一本の線の上をあっちとこっちから歩いてきて、出会ったらジャンケンしていたのですが、当然、負けた方がその線から降りて、また端から歩いて…となると思ったのですが、全然違った。

ジャンケンしてから、「う~ん、どうしようか」とルールを考えているのです。「こころ(文字)」以前の子どもたちの遊びです。

これってアマテラスとスサノオの「うけひ」を思い出します。

これはいわば「刑」や「罰」はあるけれども「法」はない、というのと同じです。いまだったら絶対変です。が、古代ではこれが普通のことなのです。だからこそ法を制定した「ハムラビ法典」も「ウル・ナンム法典」も、そして中国の法家も革命的だったんです。

「おお、そうか。先に法を作っておけばいいんだ!」って。

あ、この「作る」というのは正確にいえば違いますね。若松英輔さんの『イエス伝』に…
「預言」は戒律を含む
という一文があります(p.32)。

「法」というのは、神の仲介者である預言者が、預言を通じてこの世にもたらした。すなわち法は、人が考えたのではなく神よりの預言です。

「え~、そんな~。預言だなんて」という方。

でも、これは中国の法家が人為を排する道家から出たことや、法の本字「灋」が神審の際に用いられる犠牲の神羊、「廌」に由来することとも呼応するのです(が、あまり深入りしないことにします)。

法_金文
(「法」の金文)

▼自然や死者が声を取り戻すとき(1)

さて、話を『古事記』に戻しますね。

大昔の人には聞こえていた山や川や草木や岩の声、すなわち「荒ぶる神々」のおしゃべりは、天孫の秩序の力によって止まりました。

このとき、死者も沈黙したのです。

が、それがまた復活してしまうときが『古事記』には二度あります。

一度は、天照大神が天岩戸に隠れてしまったときです。

天孫の代表である天照大神がいなくなれば、そりゃあ「荒ぶる神々」はまたおしゃべりを始めますね。
故(かれ)ここに天照大御神、見畏(み・かしこ)みて、天の石屋戸を閇じて、刺しこもり坐(ま)しき。爾(ここ)に高天原皆暗く、葦原の中つ國、悉(ことごと)に闇し。此れに因りて常夜(とこよ)往く。ここに萬(よろづ)の神の聲(おとなひ)は、狹蠅(さばえ)なす滿ち、萬の妖(わざわひ)悉に發(おこ)りき。
よろづの神の声が<狭蝿(さばえ)なす>満ち」というのがすごいですね。

<狭蝿なす>は「五月蝿なす」とも書かれます。旧暦の五月(梅雨の時期)に無数の蝿が出現し、ぶんぶんと耳を聾して五月蝿(うるさ)い。

ちなみにこの時代の人は、死体に群がる蛆も「ころろく(ころころ音がする)」と表現します。気持ち悪っ。

▼暗闇の声

さて、天照大神が隠れたあと「高天原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し」というのも注目したいところです。

「暗」にも「闇」にも「音」が入っています。暗闇は音と関係があります。神々は闇夜に「音」のみさせて(文字通り)おとずれるのです。

この「暗」「闇」は視覚的な話だけではありません。「いや~、僕はその世界には暗くて」というように、もっと広い意味で使われます。

天照大神ら、天孫によって作られた、明瞭な、規則的な、秩序だった世界が、突然、曖昧な闇の世界に戻ったのです。明るい秩序世界が闇によって崩壊する。

この闇の到来とともに、いままで黙っていた<もの>らが五月蝿のようにおしゃべりをはじめます。

▼いまも暗闇は…

…っていうのが『古事記』のお話でですが、でも僕たちにこれを夜に感じることがあります。

電気を消して真っ暗にする。ひとりでその暗闇の中にいると、昼の間に人からいわれたいろいろなことが聞こえてくる。ずっと昔に亡父にいわれた言葉がよみがえってくる。放置していると、まさに「五月蝿」のごとくに満ちてくる。

そんなことがあります。

古代の人は、これがもっとはっきりと聞こえていたのではないでしょうか。

現代的にいえば死んでいる人でも、もしその人が言葉をしゃべったら、その人は生きているのか死んでいるのかわからない。

…って、現代でいえばホラーですが、そのようなことが当然だったのが古代なのではないでしょうか。