イナンナの冥界下り

シュメール神話『イナンナの冥界下り』を上演するための雑感を書くブログです。

てんらいWS 発声第5回WS終了!(香西 克章)

12/18木)19:00~21:30 三田フレンズ 地下1階 第2音楽室 にて終了しました。
第1回から体を知る、頭部 、首、体幹部に続き、第5回では、脚をとり上げました。
身体を支える脚の事を、私達は案外しりません。
そして、脚が、呼吸や声に密接に関わっています。
脚、大腰筋、横隔膜、発声! 5つの母音で発声し、グレゴリオ聖歌、イナンナ3拍子を歌いました。
 来年は、第1〜5回までをまとめ、実践編に入ります!

ガチンコ浪曲講座第五回(玉川奈々福)

五回目になりました、奈々福の「ガチンコ浪曲講座」@カメリアプラザ第一和室。
前回から、いよいよ、浪曲の核心たる「節」、冒頭の「外題づけ」と呼ばれる節のお稽古に入っておりますが。
今回はそれをもっと深めました。
「手本を百回聞くように」という鬼のような課題を出しているせいか、節はちょっと難しすぎと思うせいか。
いい~感じの脱落率で、17名様のご参加。うふふ。
この講座、ご新規は受け付けておりません。積み重ねて行く、ということをやってもらっています。
いい感じの人数で、お一人お一人と、がっつり向き合えます。

まずは、声を出すこと、なので、今回も啖呵の復習から。
「ああなりまして、こうなって……」

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お腹からまっすぐ声を出しておいてから、節のお稽古。
みなさん、なかなか、三味線とともにうなる機会ってないですよね。
三味線の音を耳になじませてもらい、糸に乗る声をださなければならない。
だから、とにかく三味線を弾いて、声を出してもらいましたが、
「お手本を、百回聞いてきてね」という鬼のような課題が功を奏したか、皆さん、ちゃんと糸に乗ります。
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そして、最後に、啖呵(浪曲のセリフ部分)のお稽古。
書いてある台詞を上手に読めばいい、というのではないのです。
「ああなりまして、こうなって……」がいかに「言えない」かを実感してもらったように、
啖呵の、間合い、尺、声の押し引き、これにもテクニックが詰まっています。
これを、このまんま、身体に写し取ることが、まずは大事。

それにしても、声を出すことも大事だから、いっぱいいっぱい、うなり、語り、してもらいました。
みなさんいっぱいいっぱい声出しましたねー!!!
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あれ? 前回、「次回は、三味線の音を聞き分ける、耳を鍛える稽古をします。そして浪曲のあんな節、こんな節をご紹介します」といったのに。
それ、しなかった。
次回こそ、しますね。
そして、最終回は、発表会です!

イナンナと冥界(03)

▼自分の「死」は認識できない

前回は…

古代日本語で「しぬ」は「死ぬ」ではなく、魂が遊離して、しなしなになるという「萎(し)ぬ」であった

…ということを書きました。

古代の日本語に「死」という言葉も、その概念もなかった。人は、しなしなになる「しぬ(萎ぬ)」と、元気になる「いく(活く)」とを永遠に繰り返す存在であり、恒久的な「いく(活く)」もなければ、恒久的な「しぬ(萎ぬ)」もない、そう昔の日本人は考えたのです。

「そうは言ったって、古代の人だって生き返らない人がいたのは事実でしょ」

確かにそうです。

…で、今回はこれについてふたつの視点からお話しましょう。

まずは自分自身の死、それから他者の死です。

▼自分自身の死は認識できない

死者の国を「大いなる虚構的真実」だと前に書きましたが、「死」も「大いなる虚構的真実」です。なぜなら、僕たちは他人の「死」を見ることはできても、自分の「死」を体験することはできないからです。

弘法大師 空海が…

生まれ生まれ生まれ生まれて
生の始めに暗く
 
死に死に死に死んで
死の終りに冥(くら)し

…と書いたように、僕たちにとって自分の「生の始め(誕生)」「死の終わり」は暗闇であり、認識をすることができません。

たとえばよそ見をしながら歩いていて電信柱にぶつかったとしましょう。「電信柱にぶつかった」と気づくのは、電信柱にぶつかったあとです。当たり前ですね。

電信柱

で、(おそらく)「死」もそうです。いくら他人が「この人はもう死ぬ」と言ったって、本当に「死」が実現されるのは死んだときでしかない。「あなたはもうすぐ死にます」と言われて、自分も「ああ、このまま死ぬんだな」と思いながら、そのまま意識が絶えても、「あれ?」ってまた目覚めることだってあります。

自分が「死んだ」ということがわかるのは「死んだあと」なのです

だから、もうこれは永遠にわからない。

まあ、ほんとはね、まだ、自分がその状況になったことがないから断言はできないのですが、僕たちは自分の「死の瞬間」を認識することができないんじゃないか、そしてそうであるならば「死の絶対性」を、少なくても自分自身の体感からは確信することができないんじゃないか、そう思うのです。

▼能には果てあるべからず


実は、自分が死ぬ瞬間にそれが認識できるかどうかを知るために、その練習として、たまに「眠りに落ちる瞬間」を認識してみようとしているのですが、これがなかなかうまくいきません。「その瞬間をGETしよう、GETしよう」とトライしながら眠るのですが、いつもその瞬間は覚えていないのです(寝つきがいいというのもあるかも知れませんが:笑)。

能を大成した世阿弥は…

「命には終わりあり。能には果てあるべからず」

…といいました。

これは「客観的事実としての"命"には終わりがあるかも知れない。だが、能を演じている自己という"主観的事実"には果てがない」という意味です。

能の演者の多くは最後の最後まで現役です。舞台の上で亡くなる人もいます。その人にとっては死というものは存在しない。旅に病んでまでも、夢で枯野を駆け巡った芭蕉のように、いつまでも舞台の上で舞い続けているのです。

▼他者の死

自分の死の認識は難しいとしても、僕たちは他者の死はたくさん実見していますね。

それは古代の人だってそうでしょう。人のこともあれば、犬のこともある。牛のことだってあれば、植物のことだってあった。

が、そう考えるのは「死がある」と思っている現代の僕たちだからです。「他者の死」といったって「死」そのものがなければ、他者の死もないのです。

…なんて言葉尻をとらえるのはやめて、さて、では僕たちは、何をもってそれを「死」とするのでしょうか。

人間に限っていえば、昔だったら「息を引き取る」、すなわち呼吸の停止が「死」でした。

また、ちょっと前までは、お医者さんが臨終の人の側にいて、息が止まったら聴診器を心臓に当てて、「ご臨終です。何時何分です」といい、その時間を死亡診断書に書き込み、これをもって「死」としました。

私事で恐縮ですが、僕が最初に人の死を意識したのは小学校1年生のとき。祖母の死でした。このときの記憶は、その後、いろいろと考える要素が多いのですが、それはさておき、文字通り「息を引き取る」というような静かな死でした。

「息を引き取る」というコトバが、実感として生きていた時代の話です。

また、エイズにかかったタイの人を看取ったときも、そうでした。都内某病院でしたが、もう痛み止めが効かなくなっていたので、ずっとマッサージをしていたのですが、「もう、大丈夫」と言って、その数秒後に息を引き取りました。これも静かな死でした。

身寄りのない彼の場合は、そのまま死亡と診断されましたが、ふつうのケースならば、そこでさらに機械的に呼吸をさせたり、心臓に電気ショックを与えたり、心臓マッサージをしたり、脳の活動も停止したかなどを調べたりして、やっと「死」として認定されるということも多いでしょう。

現代人が、それを「死」と認定するのはなかなか大変なのです。

しかし、これらだって時代が変わればどうなるかわからない。

そういうことによって診断された「死」ですら、「確実な死」ではないことは、脳死の議論などからも明らかです。

僕たちは、何かをもって「死を知る」のではなく、何かによって、それを「死と定義」しているだけなのです。心臓が止まり、息も止まり、脳が活動を停止した時点をして「これを死であるとしよう」と決めているのです。

▼死者がしゃべる

さて、いまここに(現代的にいえば)死んでいるように見える人がいるとします。

が、もし彼が自分に語りかけてきたらどうでしょう。それもはっきりと。

横たわる

現代人ならば、それを「幻聴」だといって片付けるでしょう。しかし、古代の人だったら、それを「い(活)きている」と思ったのではないでしょうか。

「人に口なし」といいます。口がある人、すなわち言葉は話す人は「死人」ではないのです。

「死人がしゃべったりするものか」というでしょう。あるいは目の前の死者の声が聞こえる人は、精神的に病を抱えている人だけだ、そういう人もいるでしょう。

しかし、昔は死者どころか山川草木、あらゆるものがしゃべっていたようです。

「大祓詞」というものがあります。6月と12月の大祓のときに読まれる祝詞(正確には祝詞とはちょっと違うのですが)です。

その中に…
荒振(あらぶる)神等をば神問はしに問はし給ひ。
神掃へに掃へ給ひて。
語(こと)問ひし磐根(いわね)樹根立(きねたち)、
草の片葉(くさは)をも語(こと)止めて…
…という句があります。

この祝詞によれば、かつては岩や樹木、草なども言葉をしゃべっていた

想像してみてください。山道を歩いていると岩や木や草までもがぺちゃくちゃおしゃべりしている。うるさいですね。都市の音楽もかなりうるさいですが、植物、自然におしゃべりされたら、もうめちゃくちゃうるさい。

もちろん、このおしゃべりはいわゆる言語的なおしゃべりとはちょっと違ったおしゃべりでしょう。日本の古典音楽やジャズなどをしている人は言語を使わない会話というが普通に成り立つことを知っています。自然のおしゃべりがそうだというわけではありませんが、言語的なおしゃべり以外のおしゃべりもあるのです。

ま、それはともかく、こうしたおしゃべりを止めたのが天孫である瓊々岐(ににぎ)の命(みこと)です。荒ぶる神々を掃討したことによって、岩や木や草のおしゃべりが止まったと大祓詞にはいいます。

そうなのです。岩や樹木や草などの「自然(naure=φυση)」は、天孫によって掃討された荒ぶる神らの一党に属する存在で、天孫=「人間が作った(art=τεχνη)秩序」「自然(naure=φυση)」に勝った瞬間です。

▼罰はあるけど法がない

自然のコトバを封印した天孫たちは「こころ」を持つ人たちであり、「こころ」を持たぬ<まつろわぬ>人たちを「荒ぶる神々」として説得、駆逐していったんではないかと思うのです。

あ、ちなみにここでいう「こころ」というのは、ふだん使う意味とは違うので、はじめての方は以下もお読みください。

【イナンナと心の時代】

「こころ」を持つ人たちの特徴は、文字を使うこと。すなわち言語を定着させる能力を持つことです。

コトバは世界を分節化しますが、文字はその分節化を定着させます。さまざまな事象が明瞭になるんです。

正邪を分け、善悪が分けられる。ルールもできる。

ちょっと余談…

子どもたちが一本の線の上をあっちとこっちから歩いてきて、出会ったらジャンケンしていたのですが、当然、負けた方がその線から降りて、また端から歩いて…となると思ったのですが、全然違った。

ジャンケンしてから、「う~ん、どうしようか」とルールを考えているのです。「こころ(文字)」以前の子どもたちの遊びです。

これってアマテラスとスサノオの「うけひ」を思い出します。

これはいわば「刑」や「罰」はあるけれども「法」はない、というのと同じです。いまだったら絶対変です。が、古代ではこれが普通のことなのです。だからこそ法を制定した「ハムラビ法典」も「ウル・ナンム法典」も、そして中国の法家も革命的だったんです。

「おお、そうか。先に法を作っておけばいいんだ!」って。

あ、この「作る」というのは正確にいえば違いますね。若松英輔さんの『イエス伝』に…
「預言」は戒律を含む
という一文があります(p.32)。

「法」というのは、神の仲介者である預言者が、預言を通じてこの世にもたらした。すなわち法は、人が考えたのではなく神よりの預言です。

「え~、そんな~。預言だなんて」という方。

でも、これは中国の法家が人為を排する道家から出たことや、法の本字「灋」が神審の際に用いられる犠牲の神羊、「廌」に由来することとも呼応するのです(が、あまり深入りしないことにします)。

法_金文
(「法」の金文)

▼自然や死者が声を取り戻すとき(1)

さて、話を『古事記』に戻しますね。

大昔の人には聞こえていた山や川や草木や岩の声、すなわち「荒ぶる神々」のおしゃべりは、天孫の秩序の力によって止まりました。

このとき、死者も沈黙したのです。

が、それがまた復活してしまうときが『古事記』には二度あります。

一度は、天照大神が天岩戸に隠れてしまったときです。

天孫の代表である天照大神がいなくなれば、そりゃあ「荒ぶる神々」はまたおしゃべりを始めますね。
故(かれ)ここに天照大御神、見畏(み・かしこ)みて、天の石屋戸を閇じて、刺しこもり坐(ま)しき。爾(ここ)に高天原皆暗く、葦原の中つ國、悉(ことごと)に闇し。此れに因りて常夜(とこよ)往く。ここに萬(よろづ)の神の聲(おとなひ)は、狹蠅(さばえ)なす滿ち、萬の妖(わざわひ)悉に發(おこ)りき。
よろづの神の声が<狭蝿(さばえ)なす>満ち」というのがすごいですね。

<狭蝿なす>は「五月蝿なす」とも書かれます。旧暦の五月(梅雨の時期)に無数の蝿が出現し、ぶんぶんと耳を聾して五月蝿(うるさ)い。

ちなみにこの時代の人は、死体に群がる蛆も「ころろく(ころころ音がする)」と表現します。気持ち悪っ。

▼暗闇の声

さて、天照大神が隠れたあと「高天原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し」というのも注目したいところです。

「暗」にも「闇」にも「音」が入っています。暗闇は音と関係があります。神々は闇夜に「音」のみさせて(文字通り)おとずれるのです。

この「暗」「闇」は視覚的な話だけではありません。「いや~、僕はその世界には暗くて」というように、もっと広い意味で使われます。

天照大神ら、天孫によって作られた、明瞭な、規則的な、秩序だった世界が、突然、曖昧な闇の世界に戻ったのです。明るい秩序世界が闇によって崩壊する。

この闇の到来とともに、いままで黙っていた<もの>らが五月蝿のようにおしゃべりをはじめます。

▼いまも暗闇は…

…っていうのが『古事記』のお話でですが、でも僕たちにこれを夜に感じることがあります。

電気を消して真っ暗にする。ひとりでその暗闇の中にいると、昼の間に人からいわれたいろいろなことが聞こえてくる。ずっと昔に亡父にいわれた言葉がよみがえってくる。放置していると、まさに「五月蝿」のごとくに満ちてくる。

そんなことがあります。

古代の人は、これがもっとはっきりと聞こえていたのではないでしょうか。

現代的にいえば死んでいる人でも、もしその人が言葉をしゃべったら、その人は生きているのか死んでいるのかわからない。

…って、現代でいえばホラーですが、そのようなことが当然だったのが古代なのではないでしょうか。

12月のイナンナ・ワークショップ

12月のイナンナ・ワークショップです。お知らせするのが遅くなってしまい申し訳ございません。すでに満席のワークショップもございますのでご注意ください。

●能楽ワークショップ(第5回)
12月17日(木)  19:00-21:00
講師:安田登
第五回: 
会場:場所:三田フレンズ 2階 レクリエーションホール
   ★前回とは違いますのでお間違えのなきよう
住所:目黒区三田一丁目11番26号
   最寄り駅:目黒駅、恵比寿駅から徒歩10分
   電話番号:03-3791-7901
基準受講料:2,000円
連絡先:info@watowa.net 

●発声ワークショップ(第5回)
12月18日(金)  19:00-21:30
講師:香西克章
第五回: 
場所:三田フレンズ 地下1階 第2音楽室
住所:目黒区三田一丁目11番26号
   最寄り駅:目黒駅、恵比寿駅から徒歩10分
   電話番号:03-3791-7901
基準受講料:2,500円
連絡先
katsuaki-1963-g.gould@i.softbank.jp
 
●浪曲ワークショップ(第5回)
12月18日(金) 19:00-21:00
講師:玉川奈々福
第五回:
会場:カメリアプラザ第一和室
江東区亀戸2-19-1 
基本受講料:2000円(別途教材費:CDと台本1000円or音源ダウンロードと台本:500円)
予約:プロジェクト福太郎 090-7001-6867 tamamiho55@yahoo.co.jp
※満員 
 
●シュメール語ワークショップ(第4回)
12月21日(月)  19:00-21:00
講師:高井啓介
第四回:冥界の門番ネティと一緒にイナンナを迎える 
会場:東方學會2F会議室
住所:千代田区西神田二丁目4-1
最寄駅:神保町 
基準受講料:2,000円
予約:info@watowa.net 

●ダンスワークショップ(第5回)
12月27日(日)  17:00-19:00
講師:蜜月稀葵
第五回: 
会場:銀座・カマレホウジュ
住所:中央区銀座一丁目23番4号 
基準受講料:2,000円
予約:カマレホウジュ 080-7952-6709
camale.info@gmail.com


イナンナの冥界下りのあらすじ(再掲)

yasuda
<安田登>
ミシマ社さんのコーヒーと一冊シリーズで『イナンナの冥界下り』が出ました。

で、その中でもシュメール神話『イナンナの冥界下り』の「あらすじ」を書いていますが、あそこに書いてあるのは「まともバージョン」です。実は以前に「お遊びバージョン」のあらすじを作ったことがあります。ずいぶん前の話なので、ご存知ない方も多いと思うので、再掲することにします。

おもちゃ屋さんで買った人形と、紙にクレパスで書いたものをデジカメで撮って作ったものです。かなりいい加減なので怒らないように(笑)。

・以下、3回に分けて書いています。タイトルをクリックしてください。

<1>イナンナ冥界に向かう
001n

<2>イナンナ冥界で死す
007

<3>イナンナよみがえる
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…というわけで『イナンナの冥界下り』です。まだの方はどうぞ~!

イナンナ本
 アマゾン→こちらでどうぞ。

イナンナと冥界(02)

イナンナ本small

▼古代の日本人には「死」はなかった

前回から始まった「イナンナと冥界」、これは上掲のミシマ社刊の『イナンナの冥界下り』でカットした部分を連載しているものです。

今回は古代人は「死」をどのように考えていたのかについて考えてみましょう。

イナンナの死は『イナンナの冥界下り』の中では「弱い肉(打ちひしがれた肉)になった」と表現されます。

傷ついた肉
<弱い肉(打ちひしがれた肉)>

「弱い肉」なんて聞くと、私たちはこれを「死の比ゆ表現だ」と思ってしまいます。しかし、古代の人たちは比ゆとは思っていなかったかもしれません。現代の私たちから見れば「死んだ」としかいえないイナンナも、古代の人にしてみればただ弱い肉になっただけ。肉としての機能が、弱まっただけ、そう考えていたのではないでしょうか。

少なくとも古代の日本人はそうでした。古代の日本人には「死」はなかったのです。

しかし、日本語で書かれた(漢文、万葉仮名混交文ですが)もっとも古い書物のひとつである『古事記』を原文を読んだ方は、「『古事記』には「死」という文字が使われているではないか」と思うでしょう。しかし、これは稗田阿礼(ひえだのあれ)の語りを漢字にした太安万侶(おおのやすまろ)の(おそらくは恣意的な)誤使用であったと思われます。

古代の日本人には「死」という概念もなく、だからおそらくは死に対する不安もなかったのです。

このことについて、もう少し詳しくお話しておきましょう。

▼「音(おん)」と「訓」 

が、この話を進める前に、「音(おん)」と「訓」について確認しておきますね。

日本には長い間、文字というものがありませんでした。それがあるとき海を渡って「漢字」が入ってきました。最初はまったく意味不明でしたが、それを携えてきた人とのコミュニケーションの中で、どうもそれが事象を表す記号であり、さらには日本語の何かと対応していることに気づきました。

たとえば「海」という漢字。

海の向こうの人々は「カイ(hai)」と読んでいました。これが「音(おん)」です。「sea」を「シー」とか「スィー」とか読むようなものです。

そしてこの「カイ」は、どうも自分たちがいう「うみ」に似ているぞと気づき、この「海」という文字に「うみ」という読みをつけました。これが「訓(くん)」です。

「空(クウ)」は「そら」と訓じ、「花(カ)」は「はな」と訓じました。古代の日本人だったら「sea」に「うみ」という訓をつけていたはずです。

音と訓
青字が「」で赤字が「

▼日本になかったモノには漢字が当てはめられなかった

このように漢字の「音」「訓」との組み合わせはどんどん増えていきました。ところが中には「そのもの自体が日本には存在しないものがある」ということに気づきました。もともとそれが日本にはないのですから「訓」をつけることができません。現代でもいくつか見つけることができる「音」だけの漢字群がそれです。

たとえば「字」。文字は日本にはなかったので「ジ」という音しかありません(「あざな」という訓は後代にできたものです)。

こういう例では、「死」もそうですね。「死」には訓がない。

音のみ
「訓」のない漢字もある(赤字は音)

ちょっと余談を。

僕は昭和31年(1956年)生まれで、千葉県の銚子市にある海鹿島(あしかじま)という漁村で育ちました。うちの門の2m先は海岸という、すごい田舎で育ったのですが、そんな田舎でも中学になると(当たり前ですが)英語の授業がありました。

で、その授業で…

This is an orange.

…という文を学びました。

いまだったら「これはオレンジです」と訳しそうなものですが、当時のうちの近くにはオレンジなんてものはありませんでした。ですから「これはオレンジです」という訳文は何も言っていないに等しいのです。

中学一年生の、しかも英語を学び始めた子には、そのような宙ぶらりんな状態は耐えらないと先生が判断したか、あるいは先生も「オレンジ」なるものを知らなかったか、当時は…

「これはみかんです」

…と訳されたのです。

閑話休題…

さっき、さらっと書き流してしまいましたが、「死」には訓がない…ということは当時の日本人には「死」という概念がなかった…ということを意味します。だから「死」という漢字が入ってきたときにも「なに、それ?」って感じで「訓」をつけることができなかったのです。

▼日本人は「信じなかった」 

しかし、最初に書いたように『古事記』の中には「死」という漢字は使われています。これはどういうことなのでしょう。

これを考える前に、動詞についても見てみましょう。動詞も事情は、「海」や「字」などの名詞と同じです。日本にあった概念には、そのまま「訓」が当てはめられました。

たとえば「見(音=ケン)」という動詞が入ってきたときには、ああ、これは日本の「みる」だな…なんて風にです。

見る

では、日本に、そんな概念がなかったものに対してはどうしたか。

たとえば「信」

中国から「信」という漢字が動詞として入ってきたとき、当時の日本人はその意味するところが何がなんだかさっぱりわからなかった。古代日本人には何かを「信じる」とか「信仰」するということがなかったのです。

信仰がなかったなら、じゃあ、神もいなかったのかというと断じてそうではありません。「信」とは、今ここに「ない」ものを「ある」と思うことです。たとえば目の前の鉛筆を示されて「あなたは、ここに鉛筆があるのを信じますか」とはいいません。

皆、眼に見える神を考えていた」と折口信夫がいうように、古代日本人にとって神とは「見える」ものだったのでしょう。

アマゾン流域に住むピダハンの人たちのことを書いた『ピダハン』の著者ダニエル・L・エヴェレットは、ピダハンたちがみな「見える」という精霊を見ることができなかった。ピダハンの人には見えるのに、ダニエルには見えないのです。どっちが本当?精霊はいるのか、いないのか。

ダニエル、「わたしには、川岸に誰もいないとピダハンを説得することができなかった。一方彼らも、精霊はもちろん何かがいたとわたしに信じさせることはできなかった」と書きます。そう、これが「信」なのであり、精霊はいるし、いないのです。

ピダハン
ダニエル・L・エヴェレット (著)、屋代 通子 (訳) みすず書房
 
そして、ピダハンの人たちにとって、神や精霊がまさに「見える」ものだったように、古代の日本人にとっても神は「見える」ものでした。神を見ることができた古代人にとって「信」とはなんとも理解しがいものだったのです。

さて、そういう理解できない動詞には「す」「ず」をつけて「音」をそのまま使いました。高校時代に習ったサ変動詞ってやつですね。複合動詞。「信」の場合は「信ず(信じる)」という動詞を作りました。

こういう例は「感ず(感じる)」「愛す(愛する)」など案外たくさんあります。

現代ではカタカナ語も「コピペする」とか「ダウンロードする」のようにサ変動詞になりますね。

▼古代人は死なない

で、その流れで考えると「しぬ(死ぬ)」という言葉が変だということがわかるでしょ。

さきほど見たように「死」という漢字は「シ」という音(オン)だけしか持たない文字です。これを動詞にするならば、「信ず」とか「愛す」と同じようにサ変動詞をつけて「死す」になるはずです。で、実際に「死す」という言葉はありますね。

死す
「死」の動詞形は「死す」で「死ぬ」ではない

でも、「死ぬ」にはならない。

となると「死ぬ」って何なんだとなるのですが、あちこち寄り道しながらお話をしたので、いままでの話をちょっとまとめておきますね。

私たちは「しぬ」という言葉を書くとき、当然のように「しぬ」の「し」「死」という漢字を当て、「死ぬ」と書きます。そして「しぬ」というのは「死」という状態になることだと思ってしまいます。

しかし、「死」という状態になるのは「死す」であり「死ぬ」にはならない。すなわち「しぬ」の「し」は「死」ではないのです。

わお!ここら辺、もう何がなんだかわからなくなった…という人もいるかも知れませんね。 が、もうちょっとお付き合いください。

▼「しぬ」とは「しなしなになる」こと

ちなみに「死」という漢字は、人の骨(歹)とそれを拝する人(匕)から成る漢字です。

死
左が礼拝する人、右が骨

「死」
とは骨になることであり、漢字で「死者」といえば白骨化した死体を意味します。そのような状態になることが「死す」です。

しかし、昔の日本語の「しぬ」とは白骨とは全然関係ない言葉でした。

民俗学者の折口信夫は、古代の日本人には、今我々が考えているように死の観念はなかった、といいます。

折口によれば、「しぬ」は「死ぬ」ではなく、「萎(し)ぬ」だというのです。

「萎(し)ぬ」、すなわち「しなしなになる」ことが「しぬ」の本来の意味であり、白骨になるのとはまったく違います。心が撓ってしまい、くたくたになって疲れ果て、気力がなくなった状態が「しぬ=萎ぬ」なのです。

古代的な言い方をすれば、「たましひ」が身体から遊離してしまった状態です。心も体も疲れ果てて、頭も動かないし、体も動かない。魂が遊離してしまって、起き上がることすらもできない。それが「萎(し)ぬ」です。

そして、これとは逆に私たちが生きているということは、魂がこの肉体に入って、それこそ「いきいき(生く=活く)」と活動している状態をいいます。

「しぬ」とはたとえば、光と水を得て「活き活き」としていた植物が、陰に置かれ、水も与えられなくなり「しなしな」になった状態に似ています。そして、その植物が再び水を光を得れば「活き活き」となるように、「しぬ」となった人も、ふたたび「活き活き」となる、そう昔の人は思っていました。

実際、仮死状態になった人が生き返った例をたくさん目撃したはずですしね。

さて、まとめておきますね。

 ・古代の日本には「死」という概念はなかった
 ※だから「死」には訓がない 

・「しぬ」という言葉はあったけど、これは「死」ではなく魂が弱ってしなしなになる状態
 ※漢字を充てれば「萎ぬ」がいい

・稗田阿礼は『古事記』を語るときに「しぬ」といっていたのを、太安万侶が「"しぬ"のの"し"って"死"と同じ音じゃん」ということで「死ぬ」という漢字を充てた。

・それ以来、日本人も「しぬ」は「死ぬ」だと思うようになり、「死」を認識するようになった












てなわけで、太安万侶の「死」の当て字は、どうも恣意的な感じがするのですが、それはまたいつかお話することにしましょう。

この「死」の話は、まだまだ続きます。

次回は「そんなこといったって、実際に生き返らない人がいるでしょ」って話から始めます。

▼寺子屋のお知らせ

さて、「死」についてお話する寺子屋を開催しますので、そのお知らせです。 

***********寺子屋***********
「いのちと死」
 ゲスト:稲葉俊郎先生(東大病院循環器内科)
2015年12月7日(月)19時~21時  受講料:お賽銭※
東江寺(広尾) 東京都渋谷区広尾5-1-21

「いのちと死」をテーマに循環器内科の稲葉俊郎先生と安田が最初にミニレクチャーをし、そのあと精神科医の大島叔夫さんも交えて座談をします。どうぞふるってご参加ください。

当日の飛び込み参加も歓迎しますが、参加がお決まりの方は以下にメールをいただけると助かります。
info@watowa.net
※「受講料がお賽銭って結局、どうしたらいいの?」→お賽銭箱が置いてありますので適当な金額をお入れください。むろんゼロでも構いません。
★なお、寺子屋に関しての「東江寺」さんへのお問い合わせはご遠慮ください。
**************

イナンナ本small
(1)<-(2)-->(3)

シュメール語ワークショップ 第三回ご報告(髙井啓介)

シュメール語のワークショップの第三回目が11月30日(月)に無事終了しました。会場は今回も塚田有一さんのお花のスタジオ(リム・グリーン)が入っている東方學會ビル(神保町)の2F会議室でした。

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出席者は26名程度だったでしょうか。先月は女神イナンナに焦点を当てましたが、今回はそのおつきの神様ニンシュブルさんが主人公でした。

シュメール語のワークショップは毎回三部構成になっています。
(1)今日の主人公について簡単なレクチャー
(2)今日のフレーズを楔形文字で粘土に刻む
(3)舞台『イナンナの冥界下り』の台本のもとになったテキストと単語帳を使って文法を学ぶ

今回もそういう感じで進行しました。

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『イナンナの冥界下り』ではニンシュブルはとても重要な役割を持っています。イナンナは冥界に下る前に、自分が帰らなかった場合に何をすれば良いのかをニンシュブルに伝えておきます。大神たちのもとを巡り、最後に大神エンキに助けを乞うようにと言い残して冥界へ向かいます。ニンシュブルはそれを守って、のちに大神たちのもとを巡って、最後の最後にエンキからイナンナをよみがえらせる秘策を授かることになるのです。

『イナンナとエンキ』という神話のなかには、イナンナが七つのメをはじめとするたくさんのメをどうやって手に入れたかが書かれています。メはディルムンにあるエアブズ神殿にエンキが大事に保管していたのですが、イナンナはメがどうしても欲しくてたまらなくなり、あるときエンキを訪ねていって、宴会になり、酔っていい気分になったエンキから、メを全部もらってきてしまいます。イナンナは天の船アマンナにたくさんのメを乗せてウルクに戻ろうとします。酔いからさめて事の重大さに気づいたエンキは、おつきの神イシュムにイナンナを追わせ、メを取り返そうとするのですが、そのときにイナンナのために戦ってメを守ったのがニンシュブルでした。冥界に赴くときにイナンナが身につけたメは、こうしてニンシュブルが死守したメのうちの七つだったのかもしれません。

ニンシュブルが果たしていた役回りは、アッカド語の『イシュタルの冥界下り』ではパプスッカルという男性の神にとって変わられます。女神であったニンシュブルは後の時代にパプスッカルやイラブラトといった男神と同一視されるようになっていきます。このあたりもとても興味深いところです。

などなどをつらつらとお話ししてニンシュブル女神をご紹介しました。


そして第二部。シュメール語ワークショップが一番盛り上がるとき、楔形文字を刻む時間になりました。
今日のフレーズはこれ。

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ga-nu sukkal ~ は、イナンナが『ニンシュブルよ、こっちに来なさい!』と呼びかける場面に、歌手の辻康介さんが歌いあげるフレーズです。

でいきなり、これを書くのですが、楔形文字3回目にして、全部で3行、26文字といういきなりの難関です。細かい楔もたくさんありますし大変かもしれないと思いましたが、これだけの文字を書いていくと、楔形文字を書くということに間違いなく手が慣れていくのだなとわたしは感心してみなさんの粘土を見て回っておりました。

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ちなみに今回のはるき君の楔形文字アートは、「バッハ!」だそうです。小澤征爾さんではなくて、「バッハ!」だそうです。

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実は「バッハ!」以上に、はるきくんの楔の形の入り方とてもいいなあ、なんだか当時の書記っぽいなあと思って眺めておりました。四本の楔が斜めに入って重なるあたりがとてもとてもそれっぽいです。次回のワークショップでは、当時の書記たちが実際に書いたいろんな粘土板を見比べてみたいと思います。

そうそう必ず最後に携帯で粘土板の写真を撮ってみてくださいね。肉眼で見るのとは違い、陰影がくっきり入りますので、とてもとても上手に写真に写りますから。これは絶対にそうなります。

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最後に、女性のことばであるエメサル、名詞のあとにつく接尾代名詞、
文章がそこで終わる動詞の使い方と、次の文につながっていく動詞の使い方など
文法について考えてワークショップは終了しました。


来月のワークショップは12月21日(月)に同じ会場にて。
ご予約は、和と輪 info@watowa.net まで。

次回の主人公は、冥界の門番ネティ、その他にも冥界のいろんな住民たちについて考えます。
そして楔形文字本文からネティが登場するテキストを解読してもみようかななどともちらっと考えております。
どうぞ次回もよろしくお願いいたします。



 


 

イナンナと冥界(01)

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<安田登>

▼神話する身体

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先日の『イナンナの冥界下り』@セルリアンタワー能楽堂・蝋燭公演では本当にたくさんの方のお出ましに加え、感想もたくさんいただきました。

ありがとうございました。

この数年間「神話を読む」ということを行っています。この上演もその一貫です(来年3月の『海神別荘』も)。

「読む」といっても本を黙読するのではなく、それを声に出し、動きをつけ…と、<上演>という形で行っています。

なぜそのようなことをするのか、そしてどうやってするのかについては2008年に大修館書店の雑誌『言語』に一年間連載した「神話する身体(全12回)」に書きました。

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詳細はそちらに譲りますが(書籍化準備中…と言いつづけて早数年)、ざっくりいえば…

・その神話の言語(なるべく)そのままに、
・能の型付け、節付けの技法を使って、神話を神聖楽劇化し、
・それを演ずることによって自分の身体を使って神話を読む

…という試みです。

その過程で、神話の時代の人たちと現代人との間の違いにいろいろと気づきました。そしてひょっとしたらその時代のことを知ることは、これからの私たちの未来を考える上で大切なのではないかと思うようになりました。

(これもざっくり書けば)神話の時代はまだ「心」のない時代、すなわち<心の前の時代>です。

そして、現代の私たちは心を持ち、心によって喜びを感じ、しかし心によって死までも考えてしまう心が中心の<心の時代>に生きています。

そして、<心の前の時代>が文字の発生とともに終焉を迎えたように、ひょっとしたら<心の時代>もやがて終わり、次には<心の次の時代>が来るのではないかと思うようになったのです。そして、現代こそ、<心の時代>と<心の次の時代>の「あわい」の時代なのではないかと。

 ▼神話の時代と現代
 
そして、この時代の神話を読むと、現代との大きな違いがいくつもあることに気づきます。そのいくつかをあげると…

(1)「心」の有無
(2)女性の地位
(3)いのちと死
(4)論理

…です。

このうちの(1)の「心」の有無に関しては『あわいの力(ミシマ社)』に書きました。また、(2)の女性の地位に関しては『イナンナの冥界下り(ミシマ社)』に書きました。

 イナンナ本

神話の時代は、社会の中心に女性がいました。これはただ「女性中心社会」というような甘いものではなく、人々のものの感じ方、いや見方すらも現代とは全く違っていたのです。「どんな風に違っていたかというと」…なんて話を書きました。

で、実は『イナンナの冥界下り』の本に載せる予定が字数オーバーでカットしたのが(3)の「いのちと死」の問題です。

ちなみにこれは稲葉俊郎先生(東大病院循環器内科)をお迎えしての2015年12月7日(月)の広尾の寺子屋でも扱いたいと思っています。もし、このブログで興味を持たれ、さらに寺子屋開催日より前にご覧になられた方は、ぜひお出ましください。

寺子屋では、最初に稲葉先生と安田がおのおのミニ・レクチャーを行います。

稲葉先生がどのようなお話をするかはお楽しみですが、私(安田)は神話の中の「死」についてお話をしたいと思っています。結論だけいうと、少なくとも日本の古語には「死」がなく、『古事記』にも「死」はないのです(「しぬ」はありますが、これは「死」とは違います)。

そして、ふたりのミニレクチャーのあと、わいわいと対談をします。

昔の日本人は正月で年を取りました。正月とは、古い生を捨て、新たな生を迎える<時>だったのです。新たな年を迎え、新たに生まれ変わるためには、一度<死>についてじっくりと考える必要があります。そこには「生」のヒントもあります。

せっかくなのでお知らせを~!

▼寺子屋のお知らせ 

***********寺子屋***********
「いのちと死」
 ゲスト:稲葉俊郎先生(東大病院循環器内科)
 
2015年12月7日(月)19時~21時  受講料:お賽銭※
東江寺(広尾) 東京都渋谷区広尾5-1-21

※「受講料がお賽銭って結局、どうしたらいいの?」→お賽銭箱が置いてありますので適当な金額をお入れください。むろんゼロでも構いません。
★なお、寺子屋に関しての「東江寺」さんへのお問い合わせはご遠慮ください。

当日の飛び込みも歓迎ですが、参加がお決まりの方は以下にメールをいただけると助かります。

info@watowa.net

********************** 

▼大いなる虚構的真実としての冥界

さて、話がちょっと横にずれましたが、そんなわけで書籍『イナンナの冥界下り』ではカットされた「冥界」と「死」について、せっかくなのでブログでちょこちょこアップしていこうと思います。

神話の中の冥界や死を考えることは、古代人にとっての「死」や「死後の世界」について考えることであり、さらには私たちにとって「死」とは何かということを考えることでもあります。

現代人、すなわち「心の時代」の人々である私たちは、死は「ある」と思っています。すべての人の最後には死が待っている、それを疑う人はいません。ところが、「心の前の時代」の人にとっては、そうともいえなかった。死がなかったとはいいませんが、少なくとも死に対する考え方は私たちとは全然違っていました。

また、近頃でこそ「死後の世界」の存在を信じない人も増えてきましたが、「心の時代」の人々にとっては長い間死後の世界も「ある」ものでした。

シュメール人が死者の国(冥界)を「行きて戻らぬ国」と呼んだように、そこは行ったきりの世界、戻ってきた人のいない国です。臨死体験などもいわれていますが、あれは脳の生み出した幻影ではある可能性が高いとか。

すなわち冥界とは、その存在を立証することができない、永遠の心象でしかあり得ない国なのです。もし事実か虚構かといわれれば、「虚構」といわざるを得ない地です。

しかし、虚構でしかありえない国でありながら、ほとんどの文化は冥界のイメージを創り上げてきました。しかも、それらには多くの共通点がある。となると、これは単なる虚構と切り捨ててしまうことはできそうにありません。

虚構は虚構でも「大いなる虚構的真実」と呼ぶべきものです。

誰も戻って来ていないということは、その存在が証明できないのと同じく、絶対に存在しないということも証明できません。

「死」も「冥界」も、絶対にあるとも、絶対にないとも言い切れない。これからやってくる「心の次の時代」では、死も冥界もまったく違ったものとして認識される可能性があります。だからこそ、心の前の時代の人々の考えを知ることによって、いまの自分の常識を揺らがせてみたいのです。

というわけで、次回からは<心の前の時代>と<心の時代>との「あわいの時代」に書かれたものを読んでいきながら「冥界」と「死」について次から考えていきましょう。

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--->(2)に続く(未) 

いよいよ始まる「海神別荘」プロジェクト

泉鏡花の最高傑作『海神別荘』を幻想楽劇として上演

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『イナンナの冥界下り』に続いて「てんらい」がお送りするのは、泉鏡花の幻想劇『海神(かいじん)別荘』です。

『海神別荘』は「泉鏡花の戯曲の最高傑作」と芥川龍之介が評するほどの名作ですが、しかし泉鏡花が生きていたときには一度も上演されなかったという悲運の戯曲でもあります。

なんといっても舞台は海神の棲む海底の楼閣

そこに居を構える海神の「公子」を舞台の中心に置き、あでやかな「官女たち」の歌舞音曲がそれを取り巻く。人の魂が化した海月の漂う海中を、海神の宮殿に向かうのは、人身御供として公子のもとに嫁ぐ清らかな「美女」

CGも特殊映像技術もない時代に、こんな幻想劇の上演は確かに不可能ですね。 

しかし、現実的な要素がひとつもない『海神別荘』は、「泉鏡花の」という限定詞を冠するまでもなく、世界の幻想劇の最高傑作のひとつといっても過言ではないでしょう。しかし、まさしくその幻想性・非現実性ゆえに、その上演が困難を極め、泉鏡花の在世中には一度も上演されなかったのです。

今回は、現存する世界最古の幻想劇である「能楽(能・狂言)」をその主軸に置き、美女には百鬼ゆめひな(飯田美千香)の「人形(ひとかた)」を据え、とことん現実性を廃した演出で、この作品を上演します。

歌舞を奏でる官女には『イナンナの冥界下り』でイナンナ役を務めた蜜月稀葵(みづき・まれあ)。

「難しいのでは」、「わからないのでは」という心配はご無用。美女の声を勤める浪曲師、玉川奈々福による明瞭な語りは現代人の耳にもよく馴染み、また幻想文学の泰斗である東雅夫が泉鏡花役で登場し、観客の皆さまをナビゲートしながら物語を進めます。

東京公演は、2016年3月5日(土)です。全席指定で12月10日より販売を開始いたします。また、『海神別荘』に向けての寺子屋も予定しています。お楽しみに~!

※なお、本公演は金沢、那須での公演も予定しております。詳細は後日。

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「海神別荘」@カメリアホール公演

2016年3月5日(土)1430開場 1500開演 
@亀戸・カメリアホール
(JR総武線で秋葉原から4駅8分「亀戸」駅下車 北口徒歩2分)

入場料:全席指定 予約5000円 当日5500

(学生・てんらい会員は1000円引き。入会のご希望はmember@inana.tokyo.jpへ) 

予約:イナンナプロジェクト事務局 event@inana.tokyo.jp 080-5520-1133(9時~20時) 

【主な出演者】

公子 安田登(能楽師 下掛宝生流ワキ方)

沖の僧都 奥津健太郎(能楽師 和泉流狂言方)

美女 飯田美千香(人形師。百鬼ゆめひな)

侍女 蜜月稀葵(ダンサー)

美女の声 玉川奈々福(浪曲師)

笛 槻宅聡(能楽師 森田流笛方)

チェロ 新井光子(チェリスト)

泉鏡花 東雅夫(アンソロジスト、文芸評論家) 他。

 

ご予約を開始は1210日より

この公演につきましては、一般のお客様は、カメリアホール(03-5626-2121)へお申し込みくださいませ。

インターネット予約もあります。

http://www.kcf.or.jp/kameido/concert_detail_010500300307.html

会員様につきましては、事務局のほうにお申込みくださいませ。会員価格で1000円引きになります。

全席指定となりますので、ご希望を添えて、お申し込みください。

入場料のお振込みをいただいたのを確認後、チケットを事務局より発送させていただきます。

てんらいメルマガ第四号 (文責:玉川奈々福)

 北風が冷たい季節になりました。今年も残すところあとひと月!

 みなさま、お元気でお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。

 1113日、「イナンナの冥界下り」第一回東京公演、セルリアンタワー能楽堂において昼夜公演、無事に終えることができました。

これも、会員の方々のお力添えによるところが大きく、心よりお礼申し上げます。

能楽堂という特殊な空間で、蝋燭能で行いました。

 

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能楽堂ならではの作法もあり、制限も素晴らしさもある中で、能楽以外の出演者たちにとっては大変貴重な経験となりました。

 多くの方からご感想をいただきました。それに励まされ、また考えさせられてもおります。

 なにせ、5000年前の神話を、この現代に現出させようという試みです。

 常に未完成であり、常に方法を探り、進化し続けていきたい……この演目は、いわゆる「劇場」では上演しません。演じる「場」により、この神話はさまざまに変化していきますので、どうか今後もお付き合いいただきたいと思っております。

 

公演当日、会員の方々には、安田登著『イナンナの冥界下り』(ミシマ社刊)をお配りいたしました。まだお手元に届いていないという方は、事務局にお申し出くださいませ。

イナンナ本

 さて、イナンナプロジェクトは、引き続き多彩なワークショップを行いつつ、次の公演への準備を進めております。

 次の公演は、「イナンナの冥界下り」@日本デザインセンター(銀座)です。

 デザイナーの原研哉さん率いる「日本デザインセンター」は、銀座四丁目の大きなビルの中にあります。13階のPOLYLOGUEはコンクリート打ちっぱなしの、フラットな空間。能楽堂とは正反対のような場所です。そこで、限定100名様に、ぺたんと桟敷にお座りいただいての公演です。客席と舞台とを明確にわけず、まるで祭りの場に紛れ込んでしまったような感覚でご覧いただける公演にしたく思っております。

12月1日からご予約を開始いたします。ご予約時に、会員であることをお伝えください。会員値段になります。チケットはご送付せず、当日受付での精算となります。定員に達し次第、締め切りとなりますので、ご了承くださいませ。

 

「イナンナの冥界下り」@日本デザインセンター公演

2月16日(火)18時半開場 19時開演

場所:日本デザインセンター13POLYLOGUE(中央区銀座4-13 銀座4丁目タワー13F 東京メトロ銀座駅、東京メトロ・都営地下鉄東銀座駅より徒歩すぐ)

全席自由(限定100名様) 予約5000円 当日5500

(学生、てんらい会員はそれぞれ1000円引き)

予約:イナンナプロジェクト事務局 event@inana.tokyo.jp 080-5520-1133

(9時~20時)

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 そして、さらに次なる公演も3月にあります。

 泉鏡花原作「海神別荘」。

 泉鏡花の幻想戯曲三部作の中で最高傑作と言われ、上演困難とされた作品です。それをこのたびも、能・狂言・浪曲・人形・語り……等の伝統芸能の身体を用いたコラボレーションで上演します。海の底深く、琅玕殿を治める麗しき公子。彼の見初めた美女が、人間界から輿入れしてくることとなった……という、大変幻想的な世界です。

 これについては、亀戸駅前の「カメリアホール」という劇場で上演いたします。

 【主な出演者】

公子 安田登(能楽師 下掛宝生流ワキ方)

沖の僧都 奥津健太郎(能楽師 和泉流狂言方)

美女 飯田美千香(人形師。百鬼ゆめひな)

侍女 蜜月稀葵(ダンサー)

美女の声 玉川奈々福(浪曲師)

笛 槻宅聡(能楽師 森田流笛方)

チェロ 新井光子(チェリスト)

泉鏡花 東雅夫(アンソロジスト、文芸評論家) 他。

 

 1210日よりご予約を開始いたします。

この公演につきましては、一般のお客様は、カメリアホール(03-5626-2121)へお申し込みくださいませ。

インターネット予約もあります。

http://www.kcf.or.jp/kameido/concert_detail_010500300307.html

会員様につきましては、事務局のほうにお申込みくださいませ。会員価格で1000円引きになります。

全席指定となりますので、ご希望を添えて、お申し込みください。

入場料のお振込みをいただいたのを確認後、チケットを事務局より発送させていただきます。

 

「海神別荘」@カメリアホール公演

2016年3月5日(土)1430開場 1500開演 亀戸・カメリアホール(JR総武線で秋葉原から4駅8分「亀戸」駅下車 北口徒歩2分)

入場料:全席指定 予約5000円 当日5500

(学生・てんらい会員は1000円引き) 

予約:イナンナプロジェクト事務局 event@inana.tokyo.jp 080-5520-1133

チラシ案表2 (2)

 

【エッセイ】蜜月稀葵


先日の能楽堂での公演では本当にありがとうございました。

沢山の皆様に支えられまして、無事に終える事ができました。

心から感謝申し上げます。

 

2014年に『御息』という作品を発表しました。”吸う息は神の御息、吐く息は御魂の御息”というサブタイトルで、私は”天と地”を行き来する存在として踊り、大いなる存在を「ただ一つのワタシ」と表現し、儀礼的な要素を散りばめてクリエイションを致しました。

その後にシュメールの女神イナンナが冥界に行くという舞台の話を頂き、何か不思議な流れを感じました。

そんなスタートでした。

 

 

『イナンナの冥界下り』はまったく自分の物差しでは図る事のできない作品で、山のシューレでの初演稽古はただただ必死。一つ一つを確かめながら積み上げた記憶がございます。

何がイイのかワルイのか、、。

通常の私のクリエイションは、立体的な白紙をどう埋めていくか、からはじまり、音楽、身体の形、空気の流れ、密度を見ていき、それに身体の動かし方で時間をコントロールして景を構築していきます。

が、こういった方法が全く使えず、、、とにかくやるしかないな、、と思ったのを覚えています。

さらに舞台上だけでなく楽屋作法等々に至るまでもが真新しく。。本当に幅広く学ぶ事ができました。

 

 

・・・・・・

 

 

沈黙から

すっと立ち

遠くのなにかに引かれている

旋回

体液への影響

手は天と地

 

これは、私が踊り始める時のイメージです。

能楽堂でのイナンナの動きは、これに強度と速度が数倍加算された状態で出てきました。

普段のダンスでは役になる事はほぼなく、ただ器となり音や場所の情報を通す事で踊っていますが、この作品で初めて役のフィルターを使いました。

役のフィルターを通すと全く予期しない方向に身体が進み、体感をしてみないとわからない事だらけになりました。全てが新しい体験でした。

 

 

『イナンナの冥界下り』はどんどん進化していく作品だそうです。(実際にそうでしたね!)

内容もさることながら、関わって下さる皆様や樹状に展開していく沢山の出来事、まるで小川が大河へ成長しているように思えます。最初に感じた流れがどんどんと先を伸ばし広がっていきます。

皆様からの声や新しい展開の話を耳にする度に日々精進を怠らず成長しつづけないといけないなと思いなおします。ダンサーは毎日の稽古が本当に大切ですからね。

楽しんで毎日稽古がんばりたいと思います。

 

そして、最後になってしまいましたが、毎回の新しい『イナンナの冥界下り』と広がり続ける出来事を皆様と一緒に楽しんでいけたら幸せに思います。

 

 

(みづき・まれあ ダンサー)